仏教入門-1のページ
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「お寺に行こう」    月刊『ずいひつ』2009年6月号に掲載
「二河白道」      
雑誌『ぱんぽん』」2009年3月号(288号)に掲載

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  エッセー「お寺に行こう」


 築地本願寺の正門を入ると左手の角に親鸞聖人の立像があり、その左手に九条武子の歌碑がある。
 「おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」
 地下鉄の築地駅を出ると目の前に、本願寺築地別院がある。関東大震災で焼失した後、昭和9年に第22代門主であった大谷光瑞により再建された。日本の寺としては極めてユニークな古代インド仏教様式の石造りである。
 大谷光瑞は、シルクロードの敦煌(とんこう)など、インドから仏教の伝播経路を検証し、仏教遺跡の探検家としても偉大な足跡をのこしている。九条武子は光瑞の妹で、『無憂華(アソカ)』などの歌集が出版されている。
 今、お寺はお葬式や法事のときにしか世話にならなくなってしまった。宗教心のない日本人と世界では見られているし、多くの日本人がそう自覚しているようだ。本当は生きている人間に必要なのが宗教であり、寺院でなければならないのに、いつからか日本人には傲慢と怠慢の心が育って、自然の偉大な力を恐れたり、自らが“おぼつかない”命(いのち)の持ち主である心が薄れてしまっている。九条武子は「大きな仏の慈悲の心に救われて、生死の道を迷い歩んでいく私だ」と、歌っている
 室町時代に京都大徳寺の住職になり88歳まで生きた頓知(とんち)話で有名な一休禅師におもしろい話がある。一休禅師は若いころ地位や名誉を望まず、お金めあての法事を嫌って、純粋な禅の道を求めた。
 あるお寺で住職をしていたとき、普段まったく顔を出さない檀家の主人が亡くなったというので読経を頼まれ出かけていった。亡くなったという主人の枕元に案内されると、一休さんは、家の人に言った
 「金づちを持ってきなさい」
 集まっていた人は、皆、どうするのだろう、と思った。一休さんは、金づちを持つと、いきなりその死人の頭をゴツン!とたたいた。もちろん死んでいる人の頭をたたいても「痛い!」とも言わず反応はない。それを見定めると、
 「もう、遅い、手遅れだ!」
 一休さんは立ち上がって帰りかかった。家人が驚いて、
 「お経を・・・・」
 と、一休さんの衣にすがるが、
 「もう手遅れ!死人に用はない!」
 と言って、帰ってしまった。
 一休禅師は、「生きている間に仏教のお経を聞きなさい」と、言っているのだ。日ごろ、生や死のことを考えずにいる、現世利益だけを求めて自己中心的な自分勝手な人へ、仏教の基本を教えている。

 「酔生夢死」という言葉がある。酔いと夢の中にあるように一生を、うかうかと過ごしてしまうことをいう。快楽を求めて、生活の糧だけをかせぐことにあくせくして、物と金の価値だけに自らの欲望を満たしていくような生き方だ。
 科学と技術のめざましい進歩の中で、心の問題が置き忘れられている。医療問題も深刻な医師不足は、医療の高度化と、病人や老人を生活環境の中で看護する共同体が崩れて、医療機関への負担の増加とともに深刻な問題になっている。その上に、病人の世話をする介護や看病が外部化している、すなわち近親者たちが世話することをしない、またできなくなっている。だから病死、老死する人の85%が自宅ではなく病院死だそうだ。東京では98%になっているという数字も新聞で見た。
 家庭での見とり、在宅死が少なくなっている。老人や病人に寄りそっていく、看取(みと)り、病人の世話することの大事さが失われている、いや忘れられているようだ。そして「直葬」が増えているのだそうだ。直葬というのは、病院で病死した人が自宅に帰らずに、葬議場に直接運ばれることである。
 さびしいですね。
 ある親族の集まりのとき、親しくしていた従妹と同居している90歳になる叔母が出席していた。母を早く亡くした私にとって懐かしい叔母だった。
 「90歳になられて、どんなお気持ちですか」
 と、そばによって聞いた。
 「90歳は、私にとって初めての年ですよ」
 と、元気に言われた。90歳も、今年の一年、今月というひと月も、今日という一日を生きる「今」を大切に生きる。過去にとらわれない。現在を他人(ひと)に頼らずに生きる。その気持を持ち続けることが長寿の秘訣なのですね。
 毎日を周りの人たちと、また、一人でもしっかり生きていく、他人に頼らずに生きていく姿勢がすばらしい。心のよりどころを持っている人だろう。住みなれた自宅で、自然な姿で末期を迎えることのできる、元気な強い心を持ち続けている。

 一昨年、築地本願寺で「十年後のお寺をデザインしよう」というシンポジュームが開かれた。仏教の宗派を越えた人たちが集まって意見が交わされた。
 そのときの結論の一つは、「饒舌(じょうぜつ)な難しい説法」はなくてもいい、開かれた、お寺のコミュニティというのを、ぜひ全国のお寺に広めていってほしい、ということだった。
 お寺は観光やお葬式のためにあるだけではない。お寺の活用と活性化をもっと考えよう。かつては老人の憩いの場所、人々の集まる場所、よい縁が結ばれる人の集うところがお寺だった。どこか心が和(なご)む、心が落ち着くようなお寺院が日常生活の中にあっていいと思う。

       (月刊『ずいひつ』2009年6月号に掲載



 



築地本願寺(本願寺築地別院)
(パンフレットより)





築地本願寺の境内にある
九条武子夫人の歌碑



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本『一休とは何か』
今泉淑夫著古川弘文堂発行
の表紙

一休の『自戒集』に、禅から浄土教への帰宗を表明している。一休が浄土教への帰依を明らかにした寛正2年は、親鸞聖人二百回忌法要で、本願寺へ参詣して蓮如上人と語り合った、と伝えられている。一休はその法要の席で、「襟巻きのあたたかそうな黒坊主 こいつが法は天下一なり」、と詠んだという記録がある。
『蓮如上人ものがたり』
千葉乗隆著より






臨済宗の祖・義玄師のことば
写仏画若松千恵子
いわき中央台教室
小泉倫子さんの書








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「二河白道(にがびゃくどう)」 

 「二河白道」は仏教法話で、生から死に至る人生のたとえ話の代表的なものの一つです。『白道』は、作家瀬戸内寂聴の作品の題名にもあります。中国や日本で古くから言い伝えられている東洋的な仏教の宇宙観や世界観にもとづくものです。西洋にも同じようなたとえ話はあるようです。
 このお話を書かれた中国の善導大師は、唐代七世紀ころの人で、仏教の真髄、お釈迦(しゃか)さまの正しい教えを明らかにされたことで知られています。西洋では、旧約聖書の「エズラ記」の中に、狭い一本の道として、同じように書かれています。
 昭和16年発行の『牛の口籠(くつご)』という、日立製作所の創業時の大先輩馬場粂夫博士の書かれた本に詳しく解説されています。
 まず、馬場博士の「二河白道」の解説を要約して紹介しましょう。
 ・・・・・・
 ここに一人、西の方に向かい旅する人がいる。行く先の南北両側には大きな二つ河の流れが現れる。南は火の河で、もう一つは水の激流が北にある。この二つの河は、それぞれおよそ幅が2キロメートルの大河で、行く先で、水と火の河は接近して、両河を隔てているのは、わずか15センチほどの幅の細い道があるだけである。水の河からは波が打ちかけ、火の河からは炎が燃え上がっている。旅人の前方には、その河を渡る狭い白く見える細い道だけである。
 さてと、後方を振り返ると、娑婆(しゃば)世界の盗賊が手に手に白刃を振りかざして、「返れ、返れ!」と呼びかけている。野獣の群れが襲いかかろうとしているのだ。前方の細い白い道を行けば、落ちて水におぼれるか火に焼かれるか、行くも退くも死ぬしかない。いずれにしても助かることはない。死ぬことが必定となれば、この白い道を行くしかないと覚悟を決めたとき、後方の東の岸(此岸(しがん))から、
 お釈迦如様の、
「おまえは決定(けつじょう)してこの道を行け、必ず死ぬことはない、そこに止まれば命があぶない、足を止めずに進み行け!」
 との声が聞こえる。また、向こうの西の岸(彼岸)からは、
 阿弥陀如来が、
「なんじ、一心にわき目をふらず、まっすぐに来い。水火の河に落ちることなど決してない、疑いなく信じて来い」
 と、呼んで手招きをしておられる。
 後方からの、
「その道は危ない、悪心を持って言うのではない、もどって来い!」
 と、賊どもの言うことには顧みず、旅人は一心に狭い白道を進んだ。しばらくして西の岸に無事にたどり着いた。そして、一切の恐怖を忘れて安堵(あんど)したその所は、生まれ故郷であり、親子兄弟はいうにおよばす知己友人と、旅人は久しぶりの対面をすることができ大慶を楽しんだ。
 ・・・・
 というのがあらすじです。
 人が楽しみを貪(むさぼ)ろうとする欲望の世界が水の河であり、自分の都合のよいようにならないとき腹が立つ怒りや憎しみの世界が火の河となります。このような娑婆世界の此岸から、極楽浄土の彼岸に行く道筋を示しています。人の死に方を示しているといってもいいでしょう。
 宇治の平等院をつくり極楽往生への阿弥陀如来によるお迎え(来迎(らいごう))を信じた極楽浄土の教えもありましたが、現実は、そのように甘くうまくはいかないものでしょう。平安時代の末期、藤原一族が栄華を極めて、死に際には阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩とともに山肌を一気に下ってきて極楽往生へのお迎えがあるという、浄土信仰がありました。しかし浄土往生は極めて難しく、善導大師が、阿弥陀如来が呼んでいると説いたが、親鸞は念仏で行くといわれている。疑いをもたず阿弥陀如来の本願を信ずるという信仰心が、まず一番に大事だと日本で、一般大衆に最初に説いたのが親鸞であったのではないでしょうか。
 人生の縮図として、二河白道は古今東西で共通したものといえるようですが、白道を進むものは、西洋では夢のお告げであり祈りといい、仏教では、善導大師は如来が呼ぶといい、親鸞は信じて疑うことがなく念仏で行くといわれる。
 馬場博士は、「二河白道を知らないで、うろうろしている人も多いが、白道から落ちる人もいる。これを自殺という、気の毒な人だ」
 と、記されています。そして、
「親鸞の教えが一番進んでいるように見える。白道で落ちて死んではならない、また引き返してはならない。大悲を信じて、貪欲(どんよく)、怒りや憎しみを取り除いて、清い祈りを心がけることが望ましい。願わくは積極的に。」と結ばれています。

 二河白道の絵は鎌倉時代から現在でも多く制作されていますが、挿画は、本『牛の口籠』に載っている東海進蔵氏の描かれたものです。

   
雑誌「ぱんぽん」2009(H21)年3月号(288号)に掲載





下の黄文字をクリックするピアノ「白い道」が聞けます
北海道富良野の風景
(星川雄さん撮影)
クリックするとピアノ演奏が聞けます。ピアノによる『白い道』
ヴィヴァルディ「四季」からをお聞きください。


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棟方志功の「御二河白道図」
高岡市善興寺 所蔵
日本経済新聞2008.12.23掲載
(東京虎ノ門 光明寺にリトグラフがある)



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「ぱんぽん」2009.3月号掲載
馬場粂夫著「牛の口籠」より
東海進造絵


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