コンピュータの開発物語のページ
目 次
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新幹線列車運行管理システムの開発  2006年9月号『ぱんぽん』に掲載
  
COMTRAC Ph-1の開発

HITAC-7250のOSはIBMより1年先行 1998年3月発行『制御用計算機HTAC7250開発史』 
 ○ 新幹線列車運行管理システム運用開始40周年記念・祝賀会
   2012年11月20日

 ・祝賀記念アルバム
 ・記念会式次第と出席者一覧、井原廣一博士の記念講演


2017年7月18日 COMTRAC茨城地区Ph-1の会


○ iPhone X を購入 2017年12月3日

iPhone 6s を購入 2015年11月22日               
iPhone 6、6plus が発売される 2014年9月19日
2013年末にタブレットがパソコン市場を侵食
○ iPhone 5s を手に入れる 2013年11月13日
○ iPhone 5s が発売される 2013年9月20日
iPad mini発表 2012年10月23日 タブレット大競争時代
New iPad発売 2012年3月16日
2012年にスマートフォーン大普及へ
スティーブ・ジョブズの格言
スティーブ・ジョブズ 米アップル創業者 死去  2011年10月5日
  
パソコン「マッキントッシュ」、iPod、iPhone、iPadの開発者
タブレット型パソコンの普及元年  
2011年1月7日


iPad(電子書籍)の登場  2010年6月 洋泉社mook


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 1972年3月15日
COMTRAC Ph-1の開業

(新幹線岡山開業時)










1972年3月15日
岡山駅まで開業したときの新幹線










『ぱんぽん』2006年9月号
に掲載




















完成記念につくった
七宝焼の「Z旗」をあしらった
ネクタイピン

























1992年10月返仁会にて
左:井原廣一博士 
右:久保俊彦博士(返仁会名誉会長)







『ぱんぽん』2007年12月号
創刊60周年記念特別号
の表紙(古川社長の似顔絵を読者12人のお子さんに描いていただいた)
この号から井原廣一博士の『システム研究開発マンダラ』シリーズの連載が始まる




  新幹線列車運行管理システムの開発

    COMTRAC Ph−1の開発

 新幹線が日本ではじめて東京と大阪間に開通したのは、東京オリンピックの開催された1964年だった。ひかり号とこだま号がそれぞれ1時間に4本程度の運行だったから、新幹線の中央指令室で運転指令員が、列車の運行表示盤を見ながら、手動で信号機を扱って各駅の列車の出発や入線の制御をしていた。しかし、その後の大阪万国博覧会の成功や「日本列島改造論」などで飛躍的な経済発展により、新幹線の列車運行本数は急激に増加していった。人の監視と判断で手動の列車運行管理は不可能になり、コンピュータにより列車の進路制御を自動化するシステムの開発が進められた。
 当時の国鉄(現在のJR)の鉄道技術研究所が東京の国立にあった。そこで日立の本格的な制御用コンピュータの一号機だったHITAC-7250を持ち込んで試作システムの開発が行われた。当時、工場の事務管理課の小林克己さんと一緒に提案書づくりをした。国鉄に足しげく出向いて、この試作システムにより実用の受注に成功したのは、私が入社して4年めの1968年のころだった。そのころ工場の設計部門には、コンピュータのソフトウェアが分かる技術者はいなかったから、新しいシステム開発には事務管理課の応援を得た。
 同時に、高信頼度制御用コンピュータ・システムの開発が社内の研究所で進められていた。2台のコンピュータを並列に運転させて、信号制御出力データは、2台のコンピュータの計算結果を突き合せして、一致したら現場の信号装置に転送出力する方式であった。工場で1台ずつコンピュータを製造して、基本ソフト(OS)も手づくりの時代だったから、なかなか大変だった。日立の中央研究所の三巻達夫さん、三森定道さん、福岡和彦さんらのご指導をいただいた。
 システムを開発する上で、もう一つの大きな課題は、工場での出荷検査と現地で営業運転に入るまでに、どうやって完全なテストをするかということだった。東京から大阪までの新幹線の線路や信号機の模型やモデルをつくり試験することは、工場内でできるはずものない。私たちは、国鉄の鉄道技術研究所に泊り込んで、新幹線の線路図、信号系統図を見せてもらい、列車の走行を制御するATC(自動列車制御装置)の仕組みを徹底的に、国鉄の技術者から聞いた。そして、列車運行シミュレータを計算機のソフトウェアでつくることにした。
 鉄道技研の敷地内の「こずえ荘」という国鉄の人が利用する宿泊場所に、文字通り泊り込みで勉強した。当時HECの水島通保さん八木澤幸男さん高坂正敏さんらと一緒だった。毎晩、高坂さんのいびきに悩まされたことだけはよく覚えている。
 そんなことをしながら、新幹線の設備を頭に叩き込んで、鉄道技研のシステム研究室の長谷川豊さんが書いたフローチャトを見ながら、シミュレータのプログラムを作成した。 本番のシステム開発では、日立研究所の五嶋将さんが、プログラムの開発を支援してくれた。実走行する新幹線のスピードで動くシミュレータの開発は容易ではなかった。しかし、このシミュレータのおかげで、ほぼ完璧な工場内試験が出来た。そのことは、COMTRAC Ph-1が約束納期で完成できたことで証明された。
 東海道新幹線が岡山まで開業したのは、1972年3月15日だった。

 このときに、最初に完成した新幹線の運行管理システム(COMTRAC Ph-1)は、日立が自主技術で開発した制御用計算機HITAC-7250による2重系の並列同期運転のシステムだった。列車の一日のダイヤをコンピュータに記憶させて、列車の動きをコンピュータが自動的に追跡して、駅への入出場の信号機をコントロールするのが、主な機能だった。列車の走行が遅れたり、車両や信号設備が故障して、列車ダイヤはよく乱れた。このための列車運転整理、ダイヤ修正機能は、運転指令員とコンピュータとの会話による、いわゆるマン・マシン・システムであった。指令員が操作するCRTディスプレイも、この複数端末を計算機が同時に動作させるソフトウェアも、もちろん、このときのプロジュクトで開発した。  
  工場内でのシミュレーション試験 2台のHITAC7250の並列運転
      写真の(左)八木沢と(右)辻川
    
 1971年1月に国鉄から、ソフトウェアの開発要員として、助役(奥村幾正、千年茂、横田重雄、関秋生、小笠原真如、小堀雄三、高橋薫の各氏)7人と、電気技術掛(相浦袈裟人、佐藤幸雄、稲毛弘苗、五十嵐敏夫、松下勇、鈴掛操、新納利昭、北川庄一の各氏)の8人、計15人の方々が、日立の大みか工場(略称(お))に派遣されてこられた。
 (お)のソフト設計部の体制は、井原廣一主任技師、久保裕技師、解良和郎、辻川秋雄、田代勝男、竹内敏則、水戸工場から派遣されてこられた、川合義憲、根本文雄、浅井克己、日立エンジニアリング(株)(略所HEC)の水島通保、八木澤幸男、高坂正敏、藤吉俊太郎ら13人ほかの専従メンバーだった(敬称略)。工場の海側にプレハブつくりの設計室が急ごしらえされて、鉄道電話も敷かれて国鉄の工事事務所のような観もあった。頻繁に、国鉄の本社や電気工事局の幹部が出入りしていた。そこでその年の12月末の工場出荷まで、悪戦苦闘の1年間の日々が続いた。今でも、このプロジェクト室だったプレハブの設計室は現存している。
 COMTRAC Ph-1のプロジェクト・マネジャー(PM)は井原主任技師だった。PMはシステムを完成するために、国鉄と日立の共同プロジェクトチームを一つにまとめ上げる強靭な意志と、不退転のリーダシップがなければならなかった。ハードウェアは工場で部品を一つ一つ組み立ててつくった。ソフトウェアはプログラムを一ステップ一ステップ組み上げて、最後にシステムとしてできあがる。井原さんが「鬼のPM」とチームの人たちに言われたエピソードは、今でも語り継がれている。
 COMTRACの開発が始まると、大みか工場のプロジェクト室に「Z旗」が掲げられた。
 日露戦争のとき、1905年5月27日、長崎県五島列島の西方洋上で哨戒中の「信濃丸」から「敵艦見ユ」と、日本で開通したばかりの無線通信で情報が入った。これを受けて、連合司令官の東郷平八郎海軍大将は、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と打電した。東郷司令官は、日本海軍の旗艦「三笠」に「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」と、掲げたのがZ旗だった。そして日本海海戦で、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を撃破した。東郷司令官は、後に元帥となる。
 COMTRACのプロジェクトチームは、メーカである日立と、ユーザである顧客の国鉄との共同プロジェクトだった。国鉄からもソフトウェアの開発要員が日立の大みか工場に駐在して一緒にシステムの開発にあたった。今ではよくあることだが、当時は前例のないことだった。海軍所縁の国鉄の幹部が、宇高管理局から借用した本物の「Z旗」を持ち込んで、大みか工場のプロジェクト室に掲げた。国鉄は、井原さんを司令官として、Z旗を掲げたプロジェクト室、旗艦のリーダとした。そうであったから、司令官を「元帥」とよんでしかるべきだったが、プロジェクトチームのみんなは「鬼の井原」と呼んだ。確かに井原さんは妥協を許さない厳しい指導者だった。

 1992年4月、COMTRAC Ph-1の完成後20周年を記念して、JR東日本の高橋薫さん、小林輝夫さん、(お)側は、私と片平正樹さんが発起人になって「COMTRAC Ph-1大みかの会」を開催した。JRから関秋生さん、横田重雄さん、秋田雄志さんはじめ13人、日立から11人の出席があった。当時、日立の本社の宇宙技術推進本部におられた井原さん、(シ事)の服部暁彦さん、佐藤友良さん、営業の鈴木学さんらも参加された。
 宴会は大いに盛り上がり、最後は『COMTRACエレジー』を皆で歌った。
 「朝も早から点呼され 昼は課長にガミつかれ 夜は夜中にデバッグで・・・」
 と、プロジェクトの最中、退勤後一緒によく歌った常磐炭鉱節の替え歌だった。

 COMTRACは、引続き新幹線が博多まで延長されるにともない、大幅な機能拡張と性能の向上と同時に、さらなる高信頼系システムの構築が求められた。高信頼システムを実現するため、常時二台のコンピュータが並列運転し予備系のもう一台が待機するという二重化三台系構成のシステムを開発した。1975年3月10日、東京ー博多間の新幹線が開業とともに、大みか工場が開発した制御用コンピュータHIDIC-700の二重化三台系システムが運用開始となった。COMTRAC Ph-2の完成であった。開業後8ヶ月間の無停止運転の記録をつくり、その高い稼働率は大きな評価を得るものだった。
 稼動一年後には、日立製作所副社長久保俊彦は、わが国の工業技術振興のため、国民生活または産業の発展に特に寄与したものを対象にした、工業分野では権威の高い「毎日工業技術賞」を受賞した。(詳細は、井原廣一著「システム研究開発マンダラ 新幹線運行管理システム」:『ぱんぽん』285号、286号を参照)

 井原さんは、1975年に、設立間もないシステム開発研究所の三浦武雄所長の元へ転属された。
 COMTRACの完成とその後の稼動実績は、超高信頼性技術として世界的に評価され、井原さんは、「システム構成による制御用計算機システム高信頼化の研究」で工学博士号を1987年に取得された。現在は、国際情報処理学会の名誉会員になっておられ、政府の科学技術分野の委員会などでご活躍中ながら、今でも、私たちと年二回の会合を楽しまれておられる。
 COMTRACとこの発展的なシステムの技術は、全国新幹線はもとより、広く在来線にも適用されている。事業を拡大発展された多くの方々のご努力に敬服し、深く感謝する次第だ。
                                              ( 2009年9月加筆)

 
   
       1992年4月3日 日立ホテル永野屋で
       COMTRAC完成20周年記念の集まり
     前列左から2番目が筆者、その右側が井原廣一博士

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2012年11月20日

COMTRAC完成40周年
 
 新幹線列車運行管理システム
 運用開始40周年記念・祝賀会
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2014年新幹線開業50周年






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  ○新幹線開業から50周年、東京駅舎建築100周年
 2014年は新幹線が開業してから50周年、12月20日には東京駅舎が建築されてから100周年を迎える記念の年で、東京駅の構内には記念の旗やポスターが目に付いた。
 東京駅丸の内南口前のキッテビルの中華レストラン過門香で早大電気工学科S39年卒の50周年同窓会に出席した。
 学校を卒業してすぐに日本の高度成長と共に新幹線の急激な増便に対応するためにコンピュータ列車運行管理システムの導入が計画されて、その建設に携わってきた技術屋には感慨深いものがある。
 2014年11月15日
COMTRAC Ph-1
 2017年7月18日










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 COMTRAC開業45周年(岡山開業から)
 茨城地区COMTRAC Ph-1の会 懇親会 ひたちなか市「いさ美」で


    後列 : 高坂、浅井、藤吉、辻川
    前列 : 水島、井原、久保、根本  (敬称略)
 






















1966年11月長崎放送のラジオ局で
HICOM-2300による
TV/ラジオ番組自動送出システムの完成
左から湯沢靖臣、内田芳勲、小崎善さん
筆者(右)














工場内で完成した巨大な
コンピュータの筐体
(D980*W1650*H1950mm))
性能は、加算4.5μs
主メモリ32KB*2
外部記憶装置
磁気ドラム96KB*2















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  HITAC-7250のOSはIBMより1年先行

  1964年4月に日立製作所に入社して、日立工場の制御盤設計部の器具設計課に配属になったの半年ほど経ってからであった。その間、集合教育や水戸工場での実習を経て、日立工場の現場で盤の組立などの体験実習をしていた。 日立工場を希望したのは、当時、世界最先端の汎用コンピュータはIBMのマシンで、日本で最も優れたコンピュータが日立工場に設置されていると聞いていたからであった。コンピュータを利用すること、特にソフトウエアの開発に興味があった。配属になるまで日立工場で制御用のコンピュータの開発をしているなどと夢にも思っていなかったのである。
 配属されて1年間、ハードウエアの設計を担当し、トランジスタを使ったフリップフロップや時計装置の分周器の回路設計などをしたが、ハードウェアの設計にはまったく興味がなかった。藤木勝美さんが課長で、すぐ上には白石久敬さんが居られた。同期入社の井手寿之さんとは同じ職場に配属となり、寮も隣部屋だった。一緒に寮に帰って、出版されたばかりのブール代数の本など買ってきて勉強した思い出がある。
 入社1年後、日立工場では、本格的な制御用コンピュータ(HICOM-2300)を開発することになり、その基本ソフトを中央研究所の協力を得て開発することになった。ソフトウエアの開発を担当することが念願だったから、研究所の三浦武雄さんの研究室で仕事が出来ることは大変うれしかった。そこで三巻達夫さんにご指導をいただいた。当時は、まだどこにも手本の無い、多重割込みマルチタスク制御、プロセス優先割込み機能、入出力機器の同時制御のためのソフトウエア・チャネル機構などの基本ソフトをECR(Exective Control Routine)と命名して開発した。
 HICOM-2300は、1966年10月に長崎放送「テレビ・ラジオ番組自動送出装置」の制御用コンピュータとして稼動した。番組放送を時間で売るビジネスの民間の放送局で、映像や音声を再生機器の切り替えは秒単位の仕事であり、自動化が強く求められていた。本システムは長崎放送で10数年間稼動した。
 この技術が、HITAC 7250のリアルタイムOS(PMS)のベースになった。
 制御用コンピュータの技術開発の経緯と成果については、三巻さんが1994年4月発行の小冊子『研究開発の一経験』に、詳しく書き遺されている。
 このほか多くの制御技術の研究成果が当時の科学技術庁に高く評価されて、三巻さんは1987年に紫綬褒章を受章された。
 一方、IBMは制御用コンピュータとして IBM-1800を開発していた。OSはTSX(Time Sharing Executive System)と称するもので、制御機能とプログラム作成機能を有する、単なる2レベルのものであった。産業用自動制御は多重割込みの複数レベルを多用する。当時のビジネス用の銀行オンラインなどはどの支店の端末を優先するということはなく、スループットをあげる均質的な処理であった。これに対して、制御用は応答の早いものは割込んで処理するランダムアクセスの非均質的なものであり、規模は小さいが技術的には面白いものである。256個のタスクのマルチプログラミング処理を可能にして、もちろん、このタスクの中には要求される応答の速度により、それぞれ、主メモリに常駐/非常駐とすることを可能とし、さらに、プリンタなどの入出力機器の動作の空き時間も活用するプログラム・タスク間の優先割込みを実現するPMS(Process Moniter System)を開発した。
 HITAC-7250 のリアルタイムOSであるPMSはIBM-1800より1年先行していた。
 汎用コンピュータを開発していた神奈川工場の中にCCP(Control Computer Project)プロジェクトが発足したのは1965年12月のことである。
 PMSは1966年末に完成した。
 HITAC-7250の1号機は1967年10月新日鉄堺製鉄所の分塊圧延機の計算制御で稼動した。
 一方IBM-1800のOSは既述のようにTSXで、IBMはその後MPX(Multiprogramming Executive System)を開発した。1981年のIBM Journal of Res.& Dev.の記事「IBM小型リアルタイム計算機の歴史」にそのことが記述されており、HITAC-7250のPMSが、IBMのMPXより1年先行が証明された。

 <参考図書>
   『研究開発の一経験』三巻達夫著 1994年4月発行
   『制御用計算機HITAC7250開発史』 1998年3月発行
   『システム開発物語』(お)ソ二設部OB会 2007年11月発行

                  1999年5月28日
   CCPプロジェクト解散後、30年ぶりにソフト班の全員が再会した
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         2009年4月15日に(プロジェクト解散後40周年)
     CCPソフトの会:養老渓谷温泉郷 天龍荘で

   

   
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   iPad(電子書籍)の登場  2010年6月


○「電子書籍の基本からカラクリがわかる本」の紹介
洋泉社mook 1260円

 iPadの登場で、パソコン、ビジネスや子供の玩具、文房具はどう変わっていくのか?
 マイクロソフトのビル・ゲイツとパソコンが世に出てきたときから競ってきた、アップルのスティーブ・ジョブスが不死鳥のごとく放ったiPadの衝撃。
 iPad=電子書籍は、新たなパソコンの姿を示している。

 最新情報は、「タブレット型パソコンの普及元年」のページを参照
 

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10年ぶり両雄共演の記事(jpg)
2007年5月30日
カリフォルニア州で開催中の
メディア・ハイテク産業会議で

 左:アップル社・ジョブズCEO
 右:マイクロソフト社・ゲイツ会長

(写真をクリックすると、「10年ぶり両雄共演の記事ー2007.6.1日本経済新聞より・・・「表示」を200%程度に拡大すると楽に文字が読めます・・・)

















iPhone 5s
・64ビットA4チップCPU
・Touch ID指紋認識センサー
・4インチRetinaディスプレイ
・4G LTEワイヤレス接続
・ルータ機能を内蔵する
(テザリング機能)





スマートフォーンの大型化が進む。5.5型の大型スマホは
ファブレットと呼ばれる。
上図の青線はパソコンの出荷台数
2013年 3億 1千万台 
2014年 3億万台(3%減)







2015年11月
 iPhone6s発売

2017年11月3日
iPhone X 発売









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2011年10月5日

 スティーブ・ジョブズ 米アップル創業者 死去
 (Steven Paul Jobs ― Steve Jobsと表記している)
ー 
パソコンMac、iPod、iPhone、iPadの開発者ー


 日本を愛したジョブズ、結婚式は仏式で挙げた。禅の教え「シンプルにしろ」が信条だった。iPhoneのデザインは、その表現だった。

 「ハングリーであり続けろ」 
 「愚か(なほどに熱く)であり続けろ」と、2005年スタンフォード大学卒業式でのスピーチ。

 「死は生の最高の発明だ。新しきものを創るために、古きものは消えるものだ。」

  1955年 米サンフランシスコで生まれる
  1976年 アップル社を設立
  1984年 パソコン「マッキントッシュ」を発売
  1998年 パソコン「iMac」を発売
  2001年 携帯音楽プレーヤー「iPod」を発売
  2007年 高機能携帯電話「iPhone」を発売
        「我々は電話を再発明する」とスピーチ
  2010年 多機能携帯端末(タブレット)「iPad」を発売
  2011年10月5日 死去(56歳)
  2011年10月14日 iPhone 4S(for Steve)発売
  2012年3月16日「New iPad」を発売
    
    2012年5月12日 タブレット(New iPad)が届く。
   
       
  2013年9月19日 iOS7リリース
  
 
 2013年9月20日 iPhone5s 発売開始
 2013年11月13日 スマートフォーン
             iPhone5s を手に入れる
 SoftBank


  2014年9月19日 iPhone6、iPhone6+ を発売
 機  種  iPhone6+  iPhone6  iPhone5s
 画面の大きさ   5.5inch  4.7inch  4.0inch
 画面の解像度  1920*1080  1334*750  1136*640
 厚さ(mm)  7.1 6.9  7.6 
 高さ(mm)  158.1 138.1  123.8 
 幅 (mm)  77.8 67.0  58.6 
 重量(g) 172  129  112 


  2015年9月25日 iPhone6s、iPhone6s+ を発売
  2017年11月3日 iPhine X を発売
 機  種  iPhone6s  iPhone6s+  iPhone5s  iPhone X
 画面の大きさ   4.7inch  5.5inch  4.0inch  5.8inch
 画面の解像度 1334*750  1920*1080  1136*640  2436*1125
 厚さ(mm) 7.1 7.1  7.6  7.7 
 高さ(mm) 138.3 158.1  123.8  143.6 
 幅 (mm) 67.1 77.8  58.6  70.9 
 重量(g) 143 172 112  174 

  2015年11月22日 iPhone6sを購入 au




2017年12月3日
iPhone Xを購入



iPhone X
画面は有機LED

iPhone Xの仕様
PDFファイルにまとめる

(クリックして開く) 



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 2017年11月3日 iPhone Xが発売開始される。
 2017年12月3日 iPhone X を購入(auショップ日立にて)


  スマートフォン iPhone6s〜iPhone Xの月額支払い料金の推移


 上のグラフはH29年12月にiPhone Xを使用し始めて、H30年1月からの支払い料金がiPhone Xのもの。
データ使用料を1GB/月以内に抑えるようにしたことと通話料はカケ放題の契約にしたので、月額8,000円を越えていたのが、6,000円以下に抑えることができた。
 電話の使用料は相手により長電話になることがある。自分でコントロールできないものだから従来は料金が大きく変動した。相手の話をゆっくり聞くことの大事になる年ごろで、遠慮なく、また相手に気遣わせることなく話ができる効果もある。スマホの電話は大いに利用するが、H30/1からの支払い料金は略0円である。
 スマホの便利性はインターネット検索、電子書籍、マップや音楽(iTuensなど)、ビデオ(YouTubeなど)の利用にある。これがデータ利用料金に現れている。月々のデータ使用料を1GB以下にすると最低料金で抑えられる。その要領は無料で使える無線WiFiを活用することである。まづ自分の家の中ではパソコンが使っているWiFiにつながるから、いくらスマホを使ってもデータ使用料金は上がらない。音楽やビデオあるいはプログラムのダウンロードなどは必ず自宅でやる。外出先で時間があるからといってスマホにダウンロードすることは絶対にやらない。外出先でも無料で使える無線WiFi設備が徐々に増えている。ホテルやターミナル駅またよく知られているのはスターバックやマクドナルドなど利用すると無線WiFiが無料で使える。要は駐車中やバス停で待っているときとか病院の待合室、あるいは電車の中で時間つぶしなどにスマホを使うことを我慢することが肝要だ。急ぐ相手とのメールやLINEなどの交信のデータ使用料金は微々たるものだから気にしなくても大丈夫。
 パソコンと上手に使い分けをして共存する楽しみがスマホにはある。またスマホのカメラの性能が良くなり、すばらしい写真が撮れる。音楽もブルートゥースで無線イヤホンで一人で心置きなくすばらしい音質で聞くことができる。
 料金のかからないスマホの使い方というのが、スマホの上手な使い方といえる。

 iPhone Xの詳細仕様は、下記にリンクしているPDFファイルをご覧ください。
  「iPhone Xの仕様 PDFにまとめる」



   スティーブ・ジョブスの格言 
スティーブ・ジョブス
の格言 
〇 ハングリーであり続けろ
  愚か(なほどに熱く)であり続けろ

〇 ベストを尽くして失敗したら、
  ベストを尽くしたってことさ

〇 何かを捨てないと前に進めない






      
 
 


タブレットがパソコン市場
を侵食  2013年12月
 2013年末にタブレット販売台数はパソコンと、
わずか10%の差に接近した。
 日経パソコン2014.2.27



 





2012年11月発売のiPhone5
   2011年スマートフォンの販売台数が急増、2012年はスマートフォンが大普及へ。


 2007年米アップル社が発売はじめたiphone(スマートフォン)は、日本でNTT Docomoなどが「アンドロイド(Android)」搭載の携帯電話を発売してから急激に販売台数を増やしている。2012年は携帯電話の半数がスマートフォンへの買い替えに進み、iPhoneのシェアを「アンドロイド」が逆転する見込みだ。
[『日経PC21』2012年1月増刊号より]
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