「都会の山小屋」の目次        著者:愚足 釋 裕光(久保 裕)

「都会の山小屋」

     2007年9月10日 『ぱんぽん』282号に掲載
     2010年12月18日 加筆
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 都会の山小屋


 昨年の夏、新潟へ「良寛に会う旅」をした。上越新幹線の燕三条駅からレンタカーで、国上山の五合庵、出雲崎の良寛堂、良寛記念館などを見て、隆泉寺のお墓にお参りなどした。
 良寛は、江戸時代1759年、越後の出雲崎の名主の長男に生まれるが、22歳のとき出家して現倉敷市玉島の円通寺で修行する。三十三歳で、禅僧としての印可を得て故郷に帰る。しかし生涯を無宿の托鉢で生活し、多くの詩歌や書を遺し現在でも多くの人に親しまれている。
 無一物の清貧の生活に徹した良寛は、現代の高度経済成長を遂げた日本人には想像もつかない、まったく縁のない生活であった。今の私たちは、大量消費と飽食そして車社会、海外旅行の案内が新聞広告を埋める社会のまっただ中にいる。しかし良寛には、生涯無一文の心豊かな単純化された生がある。何か現代の日本人の忘れ物のような気がする。

 私が、東京に仕事の都合で単身赴任したのは、もう17年前になる。JR大森駅前に仕事場があった。当時の大森駅は駅ビルの工事中で、改札口を出て木造の階段を下りるとバス乗り場の広場には、ここからは平和島競艇場まで歩いていけるところだったから、競艇の予想屋が赤鉛筆を耳に挟んで何人も立って出艇予定と順位予想紙を声高に売っていた。今は見違えるような立派な駅ビルやホテルができ、大都会の街並みになっている。
 ちょうど、長女が高等学校を卒業して上京した年だった。仕事場は京急線の大森海岸駅からも近かったから、京急沿線の駅前マンションを賃貸して娘と二人で都会住まいを始めた。週末は、妻と下の二人の子のいる日立に戻る、そんな生活が、14年間つづいた。
 その間に、長女も下の二人の子も、東京の私のマンションを通り過ぎて、それぞれ学校を卒業して社会人になり独立していった。最後まで、東京のマンションに居たのは長女だった。勝手気ままな居候が気に入っていたのか、思えば長いこと一緒に居たものだ。
 バブル経済崩壊後もなお続く東京一極集中の現代日本は、地方の過疎化が進んでいるが、過密都市の東京に住みたいとは思わなかった。海や山が近く、生活するには快適な日立に戻ることを希望した。私が日立に戻って、定年退職を迎えた翌年に、長女は結婚するのでマンションを出ると言ってきた。マンションの賃貸契約も数ヶ月後に切れるところだった。私の東京の隠れ屋であった。東京は世界中の文化が集中しているところであり、ホテルに泊るより経費がかからないこともあり、その後も維持したかった。しかし年金生活になってからの賃貸は経済的に負担であった。
 そこで、ワンルームのマンションを購入して、管理費維持費と交通費程度の収入のある仕事を、東京で見付けることにした。一人だけで寝泊りできればいいのだから、駅前で便利はいいが、経済的に負担にならない極めて小さな中古のマンションを探した。JR目黒駅前の杉野学園通りの11階建ての古いマンションに、東側に出窓が一つだけあるワンルームが空いていた。マンションの管理組合には、杉野学園の理事も入っていたので安心して購入できた。
 5階にある部屋は、玄関の扉以外に出入りできるところはない。もし大きな地震でもあり、この扉が開かなくなると、出窓から外に出るしかない。窓からの眼下は、地下の駐車場のコンクリートまで見下ろせて高さは30メートル以上ある。その先には、狭い車道の向こう深い堀の下に山の手線の電車が走っている。この電車の騒音と、夜はライトアップした東京タワーの先端が見えるだけが、東京の風情だ。
 リホームに来た建築業者に部屋の構造を聞いたところ「エレベータホールのすぐ裏にある部屋で、しっかりした鉄骨の柱が左右にあって、扉が開かなくなることはまずないでしょう」と、安心するようなことを言ってくれた。しかし緊急脱出用品の中に、40メートルほどのロープを用意した。
 東京での仕事は、現役時代に趣味で通っていた長唄の家元の事務所に週三日出向いて、事務の仕事のお手伝いをすることにした。パソコンでホームページを更新とか、全国のお弟子さんの名簿管理など、家元は日本長唄協会の理事もしているので、結構忙しかった。しかし元来が技術屋だったから、芸能界とは肌が合わず、一年間で辞めてしまった。家元の後援団体である杵百会という会に理事の肩書きだけが残った。
 そして日立市内のNPO法人「コミュニティNETひたち」の活動に参加して、地域のパソコン学習、小学校のパソコン教室の支援やホームページ作成の事業を始めた。昔とった杵柄ではないが、コンピュターの技術は大学生の20歳のときから始めたものだから、楽しみながらできる。
 東京には、月に2回は出て築地本願寺に通っている。中央仏教学院通信教育東京地区つどいの会と、少々長い名称だが、100人以上の会員が休日に集まって仏教の学習、声明(お経)の練習をしている。Web担当世話人をして、ここでもホームページを作ったり、メール配信などパソコン技術を生かしている。

 東京のマンションには、新潟へ「良寛に会う旅」をしたときに、良寛が、40歳から20年近く住んだ国上山の五合庵で撮った写真を大きくして壁に掛けている。
良寛のつぎの詩が好きだ。

  何ぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)
  夜雨 草庵の裏
  双脚 等閨iとうかん)に伸ばす

 都会の喧騒を聞きながら、何もないマンションのなかで、二本の脚を悠々(優游 ゆうゆう)と伸ばして、何もすることがない、気ままな充足感がある。
 マンションでは、電話やテレビの回線は契約していない。
 板敷きにむしろを敷いただけの国上山の五合庵とは対極的な所ながら、静かな都会の山小屋という環境が気に入っている。

  裏を見せ 表を見せて散る紅葉










国上山 五合庵にて








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愚足凡夫が
Web担当世話人をしている








良寛の筆による書
「南無阿弥陀仏」





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