久保俊彦の本 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〇「久保俊彦の日記」 2023.12.8 Amazon jp.coより発行 Kindle電子書籍と製本書籍を発行 〇「随想折々」 2024.1.10 Amazon jp.coより発行 Kindle電子書籍と製本書籍を発行 <本の内容の一部を抜粋と付記> 〇 「父のタイプライター1952年アメリカRCAと技術提携」 2011.9.18記 父の日記 昭和27(1952)年6月10日から10月31日までの渡米記録(抜粋) 〇 「日立製作所の情報・通信事業分野の開拓者」 :橋本一二氏の弔辞より 『返仁』日立返仁会誌1995年春号に掲載「久保さんとのつきあい」橋本一二著 〇 「父の日記」 著者:久保 裕 『愛の花束』日本随筆家協会発行( 2005年11月1日) に掲載 > 〇 久保俊彦の略歴 『随想折々』久保俊彦著 平成5年4月発行より 〇 久保俊彦の公職・団体経歴一覧表 |
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本 「久保俊彦の日記」の表紙 2023.12.8 Amazon jp.coより発行 Kindle電子書籍と 製本書籍を発行 A5版 146頁 |
「久保俊彦の日記」 日立製作所の通信機・コンピュータとシステム事業を開拓・推進した一人の技術者・事業家の生涯の記録 久保俊彦は生誕の日から学生時代の明治、大正から昭和初期の記録と、戦後、戦災から復興の足がかりができた昭和25年から、永眠する二週間前までの45年間の日記を残した。誕生の日から満七才までは、両親が書き、あるいは両親の指導により本人が書いたものだ。昭和45年、副社長に就任した。重電機器や家電品の製作を主にしていた日立が年間売上高10兆円規模の大企業に成長し、その50%を占めるエレクトロニクス分野を育て上げたと云っても過言ではない。 父俊彦は、昭和七年に東京大学理学部物理学科を卒業し、同年、茨城県日立市の日立製作所に入社した。石炭を掘り出していた常磐炭鉱や、銅鉱のある日立鉱山に近い所で、モーターなど電動機器の制御装置の研究と開発に従事する。電気制御の分野は当時のハイテク産業であった。先の世界大戦後まもなく、米国の先進電子技術の導入のため、昭和27年いち早く渡米して、米国RCA社からのラジオやテレビをつくる電子部品の製造技術を日立製作所にもたらしている。その時すでに米国では半導体技術の研究開発が進んでおり、コンピュータの実用化を目の当たりにして、将来の我が国の電機事業の進むべき方向、エレクトロニクス分野の発展を予見していた。 編集 久保裕 記 |
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本 「随想折々」の表紙 2024.1.10 Amazon jp.coより発行 Kindle電子書籍と 製本書籍を発行 A5版 142頁 |
「随想折々」 2024.1.10 Amazon jp.coより発行 Kindle電子書籍と製本書籍を発行 昭和54年(1979年)日立製作所の副社長を退任するまでの60年は一貫して日立製作所の中にありました。重電機と産業機器の製造を主とした日立が、今や年間売上高九兆円規模の大企業に成長し、私は、その五十%を占めるエレクトロニクス分野を育て上げたと云っても過言ではない。日立のコンピュータとシステム開発事業の分野の発展は、私の歩んだ道そのもののように見える。 書き残し、発表したものの多くは社内向けでありました。その間に社外の仕事も多くしてきました。外部に発表したものもあり、記念に残しておきたいものの中から極く一部だけを取りまとめてみることにしました。 「人間の頭脳と研究開発」の章は、私の仕事の関係から思い付くままに書いたものの一部であります。学問的でも、体系でもない随筆です。 「企業文化」の章は、5〜6年前から広く使われるようになった言葉ですが、東洋ではずっと古くから言われてきた企業精神と相通じるものと思われます。 「芸能」の章では、「音楽」は最も主要な分野ですが、私共は小学校から西洋的音楽を教えられました。しかし日本の伝統音楽は奥深いもので、日本人に最も適した大切なものです。私は今でも三味線音楽を趣味としております。 「その他」の章は、いろいろのことに携わったうちで、こんなこともあったのか、という思い出のために、雑然と並べてみただけのものであります。 平成5年(1993年)4月記 |
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1952年6月18日Newyorkで 購入したタイプライター 左側は最近のパソコンのマウス タイプライターのキーボードと 刻字ハンマーとリボン 刻字ハンマー |
父のタイプライター 1952年アメリカRCAとの技術提携 昭和27年(1952年)6月10日から10月31日まで RCAとの技術提携のためアメリカ・ニューヨークへ、出発から帰国までの4か月の記録。 全日記の記録は、PDFファイルを参照してください。 以下はその中からの抜粋です。 昭和27年(1952年) 6月10日(火)出発 小石川を9時に出る。常盤橋で高尾さんから、日立Electron Tubeの進み方を見てくるようご注意あり。11時大森へ。西さんほかに挨拶。商品部一同と工場の部長、工場長と昼食。 通信機部田口部長、戸塚の中岡部長ら約30名の見送り。 14時10分 PAA機で羽田を出発 高橋忠夫君と二人。 乗客70人で満員。やがて満月の海上になる。白雲点々と月明の下にあり夢のようだ。 時計は3時間進んで、12時45分 Wake着 13時50分 Honolulu着 午後6時Honolulu発 PAA in Pacificで10日を2度くりかえす。 6月12日(木) 午前3時 New York着 Commodore Hotel 午後、Mr. Nettel(Hitachi Prod. Corp.)のところに挨拶だけ 6月13日(金) 11時半 RCAのoffice Rockfeller Centre のLiscence Departに行く。 Mr. Straus(51歳)は丁寧に話してくれ、来週はHarrisonへ行くことにする。 Commodore Hotelは印象悪く、Empire Hotelに変える。 6月16日(月) Londonから児玉さん来て、一緒にRCAへ、Mr. Johnsonの部屋で今週の予定を打合せる。 6月17日(火) 9時 Penn Station発、New warkよりCabでHarrisonへ Mr. Simokatから一般的な話しを聞く。午後約2時間半工場を一巡。 Parts Shopが大きくしっかりしているのが印象深し。人はよく働いているがSevereではない。 6月18日(水) RCA行きを止めてHotelの引越し。East Orangeへ、Taxで約50分かかった。 「大陸」という店(Empireの前)でType Writer一台を買う。 8月27日(水) AM m管の工場を見に行く。Dr. Schmideck(Chief Engineer)が案内してくれた。七ヶ国語を話すという。 PM Mr. HearとMr. Robert、G StevensにRecord工場とHome Instrument工場(TV、Rec.)とを5時までかかって案内してもらった。Recordは日本ビクターを3から5倍にしたScale。検査法もPressも同様に幼稚な感じがした。 TV set工場は始めてのためか、驚くべきものだった。7000坪ぐらいある。Chasis組立conveyerは12本あり。Signal waveを出すBoothには立派なsetあり、832Aを使っている。12channel位、これだけでも大へんなものだ。 9月8日(月) 11時15分Newark発のExpressでPrinceton Lab. RCAに行く。Princeton Junctionでおりると、RCAの車が迎えに来ていた。12時Lab.着。 Dr. Wolf(Research Departの長)に会う。300acreの敷地の半分は森と川で残150acreはflat lawnなり。その中に三階の建物がある。地下一階あり、Bell Lab.よりは小さいが、設備はよく行き届いた。きれいなLab.である。600人いるという。 Transistor(トランジスタ・半導体)を丁寧に説明してもらった。 5:45 PRRにのって帰る。6時半Newark着。 10月3日(金) New York最後の日。 RCAとのsignはPM3時半から、RCAビルで行う。 10月15日(水) 0:35 PAA四発機で離陸、No.4 Engine故障、見ると#4のプロペラは止まっている。遂に引返すことになった。1:38再びHonolulu着陸。4時まで待たされ、4:40離陸。 Date Lineを通過したので、すぐ16日に変わった。 11:25 Wake島に着く、12:40再びtake off 10月16日(木)帰国 5:20羽田着。機を出ると多くの人が手を振っている。荷物の検査、税関、ドルのとりかえなど約1時間、多くの人を待たせてすまぬ。武内さんは眼をうるませて手を握ってくれた。 小石川別館で、村上、武内、田口、伊藤、久保、武井、土山、内藤とYと10人で夕食。11時まで歓談。 |
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橋本一二氏 昭和25年 日立製作所茂原工場長 昭和39年 日立製作所神奈川工場長 昭和41年 日立製作所取締役 昭和59年 日立製作所顧問 平成14年8月1日 逝去(90歳) 昭和33年ころの茂原工場全景 新築のブラウン管工場を含む |
日立製作所の情報・通信事業分野の開拓者 ー平成7年2月23日 護国寺で告別式の弔辞ー 橋本 一二 私は昭和10年北大理学部物理学科を卒業したが、12年まで東大航空研究所にいて、そのうちに日立に誘われて本社に入った。ただちに専務であった高尾直三郎さんの部屋に呼ばれ、「私は日立をGEのような会社にしたい。つまり弱電にも手を出したいので、今回買収したシプヤレントゲン会社に出向して]線の仕事をしてくれ。」と申しつかった。もっとも東大航空研究所にいたとき、]線による航空機用金属材料の研究をしていたので、白羽の矢が当ったのだろうと思う。 当時日立研究所(日立工場本館の裏側にあった)にはすでに久保さんがおられ、時々シブヤレントゲンにも出張されたため、お知り合いになったのだった。その後シプヤレントゲンは、今の日立メディコの前身となった。それからはエレクトロニクスの仕事上、中央研究所、茂原工場、神奈川工場関係で、真空管関係、半導体、コンピュータ等で一生御指導を受けることになった。 神原豊三、只野文哉さんと共に、戦時中は当時の中研所長であった馬場さんに、茂原工場に行って電波兵機用の真空管を一個でも増産するようにと言われ、長期出張を命ぜられたこともあった。元帥というニックネームをもらったのも、神原、只野両氏からだった。戦争が終わり中研に戻ったが、25年頃久保さんが私の研究室に時々来られ、「橋本君、茂原工場に来てくれないか」と再三誘われたが、私はきっぱりと断った。第一、日立の中では当時最もひどい工場であったからだった。断っても断っても、中研に出張されると久保さんはしつこく私の研究室を訪ねられ、茂原に来てくれと申されるのであった。 そして何回目かに、 「橋本君、君は三顧の礼ということを知っているか。」 と申された。 「はい、私は知っています。」と、申し上げると、 「何だ、知っているのか、知っているなら言ってみろ。」 とどやされ、 「はい、昔、蜀の天子となった劉備が、自分はこれから天下を治めるのであるが、仕事は一人でできるものではない。誰か良い部下がいなければならないと思い、そこで田舎住まいをしていた立派な人物、諸葛孔明に目をつけ、何回も彼の所に行って、自分の部下になってくれと頼み、ついにこの人を手に入れた。この故事にちなみ、偉い目上の人が優れた人物を見出して、部下になって働いてくれと頼むことです。」 と申し上げた。久保さんは、 「それだけ知っていて何だ。三顧の礼どころではない、僕はこれで五回目だ。」 と怒ってしまわれ、所長からも、 「橋本君、もう行かなければまずいよ。それだけ言われるのはありがたいことではないか。」 と言われ、研究をあきらめて工場に行く決心をしたのであった。 転勤になった昭和25年といえば、5,555名の人員整理があり,40日以上もストライキがあり、まだまだ世間も工場も色々混乱のあった頃であるが、 「橋本君、今は世の中がこんな状況であるが、そのうちに各家庭に電話機やテレビがあるといった時代が来るような気がしてならない。トランジスターだってきっと大事業になるだろう。電算機も勉強しろ。すぐアメリカへ勉強に行け。」 と、茂原工場とは一寸縁が薄い話を出され、私たちは、副工場長ともなるといい気なもんだ。テレビをはじめ、そんなことは考えられないと陰口を叩いたものだった。 しかし、今から考えてみると、コンピュー夕にしろ弱電の事業にしろ、その先見の明にはただただ驚くばかりである。戸塚工場長時代を経て本社に行かれてから、この方面の事業のやり方を見ても、コンピュータを戸塚から分離して、当時のコンピュータ専用の神奈川工場を作るとか、トランジスターを使用する前は、コンピュータのメモリーはコアメモリーであったが、これを茂原に作らせたり、トランジスターまでも茂原でやり始めたりしたこともあった。 再び繰り返すが、RCAとの技術提携をはじめとし、白黒,カラーのブラウン管,コアメモリーの成功によるHITAC-5020コンピュータの完成等すべてにつき、大河内記念賞、毎日新聞工業賞、科学技術庁長官賞を頂いたのも久保さんの指導の賜である。学者としては、幾多の論文のほか著書も多く、色々の学会の理事長をはじめ、公職、団体等の役員を40以上もなされた。学者であり、事業家であり、広い交際家であり、長唄小唄の達人であり、ゴルフをやれば30台40台でまわり、うまいばかりでなく、横浜カントリーでついにホールインワンを出された。世にも珍しい、このような方を失うことは、会社のみでなく日本の損失であると言わざるをえない。茂原工場時代、ある日、久保さんに呼ばれ、 「橋本君、このまま茂原で一生を終えるなんてつまらないと患わないか。俺は趣味として長唄小唄をやろうと決心した。」 と申され、 「それはいいですね。」 と申し上げたら、 「ついては俺一人ではつまらない。君も一緒にやれ。」 と言われ、私もついにこの会に入れられてしまったのだった。 久保さん、私の出した病気見舞い状に対し、ご丁寧な御返事を9月6日に頂き、私の宝としてしまってあります。今幽明境を異にし、在りし日のあの温顔を想い浮かべる以外になすすべもありませんが、あなたの御遺徳は永遠に受け継がれ、さらに精華を加え、発展されることでしょう。惜別の情絶ちがたきものありますが、あなたが社会に尽くされた業績はまことに偉大であり、衷心より敬意を捧げます。 どうぞやすらかにお眠り下さい。 |
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『俊彦日記』の表紙 生誕の時から 久保国治が書いた 日立製作所副社長のとき 昭和48年藍綬褒章を授与される 久保 俊彦・よね子 日立製作所特別顧問のとき 本『随想折々』を発行 平成5年4月 小唄CDのジャケット 「Soul K スタジオ」を経営する レコーディング・エンジニア 久保強(従弟)がCD制作してくれた。 『愛の花束』 日本随筆家協会 平成17年11月発行に掲載 |
父の日記 父・俊彦が他界して、平成13年2月に七回忌を迎えた。遺品の整理もおおかた済んで、穏やかな新年を迎えている。父の晩年、私は元旦になると両親が妹夫妻と住む横浜の富士山がよく見える丘の上にある家に出かけて、母のつくるおせち料理をいただいた。いまではなつかしい思い出である。 今、手元には父の遺した日記がある。生誕の日(明治42年12月8日)から、小学生までの明治、大正時代の記録と、戦後、戦災から復興の足がかりができた昭和25年から、永眠する二週間前までの45年間の日記である。生まれたその日から、死の直前まで欠かさず毎日書いた日記の一部だ。誕生の日から満7才までは、両親(父 国治、母 幽香)が書き、あるいは両親の指導により本人が書いたものだ。満7歳の小学校2年の時、父 国治が「これよりは自ら考え自ら書く」としるし、その後、全て自筆となっている。 父は、昭和7年に東京大学理学部物理学科を卒業し、同時に茨城県日立市の日立製作所に入社した。石炭を掘り出していた常磐(じょうばん)炭鉱や、銅鉱の日立鉱山に近い所で、モーターなど電動機器の制御装置の製作に従事する。電気制御技術は当時のハイテク産業であった。「水銀整流器の逆弧(ぎゃくこ)に関する研究」で工学博士号を取得している。戦後まもなく、米国の先進電子技術の導入のため、いち早く渡米して、RCAからのラジオやテレビをつくる電子部品の製造技術を日立製作所にもたらしている。真空管やテレビのディスプレイ装置をつくる千葉の工場、その後、電話交換機やコンピュータをつくる横浜の工場で、製品の開発、製造にたずさわってきた。 昭和36年に東京の本社に出て、昭和45年に副社長に就任した。重電機器や家電品の製作を主にしていた日立が、今や年間売上高四兆円規模の大企業に成長し、その50%を占めるエレクトロニクス分野を育て上げたと云っても過言ではない。日立のエレクトロニクス分野の発展は、父の歩んだ道そのものように見える。 昭和48年日立副社長(64歳)のとき、通信機事業の発展への貢献が評価されて藍綬褒章を授与された。 平成5年に日立製作所特別顧問(84歳)のとき、本『随想折々』を出版している。 趣味の世界では、学生時代から謡曲を始め、長唄そして50代からは小唄の稽古(けいこ)を始める。小唄は松風流の名取りである。昭和60年、十二代目市川団十郎の襲名披露の歌舞伎座で、「助六由縁(すけろくえんぎ)の江戸桜(えどざくら)」を河東節(かとうぶし)浄瑠璃の十寸見(ますみ)東俊の名で素人衆の一人として出演した 一方、スポーツではゴルフが好きで、終戦後からの47年間で2214回の記録が残っている。年平均47回であり、おおむね毎週一回は欠かさずゴルフをしたということになり、その記録の全てが残されている。68歳の時に相模野カントリークラブで78のスコアを出している。 酒食ともにいたって盛んで頑健だった父も、77歳のとき、食道に癌(がん)が検出された。東海大学病院で手術、食道と胃の一部を切除の大手術だった。その後、毎年のように癌性腫瘍(しゅよう)の発見、摘出を繰り返した。舌部の癌を最後まで除去出来なかったのが致命傷となった。声を出せない、喉(のど)を通して食事が出来なくなるような手術はしないといって、本人は平然としていたが、放射線治療など筆舌に尽くせない闘病であった。9回目の手術で、右顎下(がっか)のリンパ腺の腫瘍を切除する。手術後の低下した喉と舌の機能は、その後の医師団による熱心なリハビリテーションにも関わらず、取り戻すことは出来なかった。 亡くなる年の元日を独り病院の一室で迎え、日記には「心安らかに、家の中、周囲の多くの人に感謝している。形の上では不自由で、何も出来ない生活だが、それでも気楽に受け入れて過ごして行くように勤めている」と、死期の近いことを覚悟しながら穏やかな姿勢で書いた。そして、この年の2月20日、85年の生涯を閉じた。 亡くなる前年、84歳のとき、三越劇場で小唄『今日もまた』を唄ったのが最後の舞台であった。 他界する数ヶ月前に、何かしてほしいことがあるかと、父に問いかけると、自分の唄った小唄をCDにしたいという。カセットテープに録音してあった小唄の数百曲から自ら選曲した四季の唄25曲を、私はCDに収めた。永眠する直前に出来たCDを聞いて「自分の声がデジタル化出来た」と、たいそう喜んでいた。出来たCDの知人への送り状に「ご縁があってお手許に参ったのですから、頭を撫でて、声を聴いてやってください。一つ小唄を始めてみようかとなれば、最もよろしいのですが」と書いた。 私たちの世代になると、昨今ではまわりを見渡しても小唄を趣味でやる人など見かけなくなっている。私自身は、ときどき小唄の稽古をしてみようかと思ったりもするけれども、なかなか始められないでいる。 |
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久保俊彦の略歴 |
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