足のページ   
 「足のページ」の目次           著者:愚足 釋裕光(久保 裕)
「足の裏に感謝」        
2009年3月20日彼岸の日に記す (中仏学習会レポート)
        坂村真民の詩「念ずれば花ひらく」
「足(あし)」      
雑誌「ぱんぽん」2007年12月号(283号)に掲載
「助川山の森」でリハビリに成功   
雑誌「ぱんぽん」2007年3月号(280号)に掲載
トップページに戻る「考える足」と自尊死について  2013年2月1日  2021年1月4日追記 
  
 足の裏に感謝


 東京オリンピック開催の2年後の1966年に、国民祝祭日として「体育の日」が制定された。そしてそれから50年後に当たる2016年に再び東京でオリンピックを開催しようという運動が起こっている。
 そこで、「体育の日」が国民祝祭日と制定された趣旨、「スポーツにしたしみ、健康な心身を培う」ということを、もう一度よく、私たち自身の「体育」について考えてみたいと思う。
 まず「歩く」ことの重要性です。近年、交通手段の発達に伴い、脚力の低下が進んでいる。日頃の運動不足を自覚し、身体の健康の維持や増進に努めることは、「歩く」ことを心がけ、普段はあまり注意を払わない「足」への関心をもつ必要がある。
 次に、健康は身体だけではなく、心の問題でもあることを忘れてはならない。「体育の日」の趣旨にある「心身」という言葉にもよく表れているが、足への関心というのは、私の足がよって立つ確かな場を見出すことだ。大地に立って体重のすべてを支えている足、高度に経済成長した社会で生活している、その足場は確かなものだろうか。
 詩人坂村真民さんの「尊いのは足の裏である」という詩に、

 尊いのは 頭ではなくて 手でなくて 
 足の裏である。
 一生人に知られず 一生きたない処と接し
 黙々として その務めを果してゆく 
 足の裏が教えるもの。
 しんみんよ 足の裏的な仕事をし
 足の裏的な人間になれ。


 と、真民さんは、自分に言い聞かせている。
 私を支えている足の裏に気づくとき、人は、その足の裏が、ゆるがぬ大地によって支えられていることにも気づくことができる。そして、真実のよりどころを求める心がひろがっていく。

 仏教は、ブッダの智慧の光によって、そのゆるがぬ真実のよりどころ、仏地(真実の地)に私をみちびき、その真実にめざめて生きることを教えている。
 ブッダは、35歳で悟りを得て、80歳で入滅されるその直前まで45年間を布教のために歩き続けられた。
 中国の唐代の玄奘三蔵は、26歳で長安を出発し、17年間を歩き続け、インドへ求法の旅をして、中国に仏教経典をもたらした。それが日本にも遣唐使などにより伝えられた。
 ブッダが入滅して、仏像を崇拝するようになる以前から、古い仏教徒がブッダの超人性を示す仏足石を拝した心がある。ガンダーラ地方で、初めて仏像が作られ、崇拝するようになったのは、ブッダが入滅してから200年ほど以後の紀元1世紀末のころといわれている。奈良の薬師寺の金堂には国宝となっている仏足石が安置されている。薬師如来の坐像の足裏に、千幅輪とよばれる見事な文様が描かれている。
 そして親鸞聖人が「心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て、情(こころ)を難思(なんじ)の法海に流す。(樹心流情(じゅしんるじょう))」という言葉を、玄奘三蔵の著した『大唐西域記』から引用されている。(*『教行信証』化身土巻)
 それが、今、私の足の裏にも通じていることは、本当に新鮮な驚きであり、よろこびだ。私の先祖の墓石には、この「樹心流情」の文字が刻まれている。
 私たちをお導きくださった善知識に感謝し、心身の健康の基本として「私の足」を大切にして、生きていきたいと思う。

  平成21年3月20日
   春お彼岸に日に記す
  参考図書
   (*)浄土真宗聖典(註釈版)473ページ
   「オリンピックの感動を忘れぬうちに」
      寺川幽香龍谷大学名誉教授著
      『学びの友』平成20年10月号 


  
念ずれば花ひらく
 坂村真民作

  念ずれば花ひらく
  苦しいとき
  いつも母が口にしていた
  このことば
  わたしもいつのころからか
  となえるようになった
  そして
  そのたび
  わたしの花が
  ふしぎと
  ひとつ
  ひとつ
  さいていった

 【日立市中央郵便局前に詩碑が立っている】



 








仏足石
インド仏教遺跡巡りパンフレット
より「仏足石」
ブッダガヤ大塔の正面にある






薬師寺東塔(国宝)
平成20年8月4日
薬師寺の東塔を背景に
渡辺誠弥 奈良藍染織館館長
(元NHKアナウンサー)
小林澤應 伽藍副主事の案内をいただき、金堂で薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の三尊像を拝顔
 玄奘三蔵伽藍殿で平山郁夫画伯の描く、大唐西域壁画を見る。

大唐西域壁画殿の礼門前で










東京霊園の墓
平成21年2月14日


      「助川山」の章のトップに戻る     
  
「足(あし)」


 京都にある石庭で有名な竜安寺の手水鉢(ちょうずばち)に刻まれている文字「吾唯足知」は、禅の言葉で「われただたることをしる」と読まれる名句である。この文字中の「足」は、「満足」とか「円満具足」といった、「十分である」という意味とされている。
「小欲知足」は、道元禅師が『正法眼蔵』の最終巻に書かれている。「欲望を少なくして、足ることを知る」と、ブッダのことばとして仏教修行者に示されたと、一般に解釈されている。
 必要以上な華美、飽食や消費物、 自動車が氾濫している現代日本の社会で「欲望を満たすことだけに価値観を求めずに、生活の潤い、心豊かな生活」を求めよ、と説かれている。
 ところで、「吾唯足知」について、日立製作所の大先輩である、馬場粂夫博士が著書『砥柱(しちゅう)餘録(よろく)』の中で解説されている。この「足」は文字どおり、身体の二本の足と解釈すること。禅宗の教えもそのような理解が正しい、といわれている。

 ブッダの最後の旅は、ブッダが80歳になったとき、霊鷲山(りゅうじゅせん)から生誕地まで300qを布教の徒歩の旅に出る。そして旅の途中のガンジス川を越えてクシナガラで入滅される。
 人間が二本の足で歩くようになって以来、身体を動かすのは、この足のご厄介(やっかい)になっている。一本でも動かなくなると、もう外出はおろか、まともな社会生活は営めない。いくら車椅子が便利に使えるようになったからといって、現在の日本の社会は、車椅子で生活できるような仕組みには、まったくなっていない。そんな甘い世の中ではない。高齢化少子化社会で、高齢者が一人でも生きていくために、年を取ればとるほど、足のご利益(りやく)は大きいのである。 

 平成18年のはじめ、私はまもなく65歳になろうという時に、自分の不注意で松の切り株に左足をつまずいて足首を捻挫(ねんざ)してしまった。全治三週間と、整形外科の医者にいわれ、ギブスで足首を固定して、順調に回復した。一ヵ月後には、歩いて外出するようになった。
 ところが、帰ってくると足首は腫(は)れて痛みが激しい。また湿布して足首の腫れがおさまるまでしばらく養生した。そんなことを三ヵ月ほど繰り返してしまった。まともに足を使うことができないから、足の筋肉はどんどん衰えていった。松葉杖(づえ)がなければ外出できない日々となった。
 そんなとき、ある人が柔道や体操などの選手の怪我(けが)の治療で評判のいい整体師を紹介してくれた。わらをもつかむ気持ちで出かけて行った。整体師は、私にベッドの上に足を伸ばして、うつ伏せになれという。
「左足が右足より一センチほど短くなっているな。ちょっと痛むかもしれないが、足の力を抜いていなさい」そう言って、グイと左足を引っ張り上げられた。
「ビシッ」と音がした。
「足首が外側に曲がって固定されていたので、足首を動かすと、伸びてしまった靭帯(じんたい)が元に戻ろうとして、筋肉に腫れが生ずるんだな。捻挫のとき足首をギブスで固定するのは、ダメなんだ。もうこれで治ったから、松葉杖を使わずに歩いてみなさい」と、こともなげに言われる。確かに歩いても痛みがない。
「明日も、また治療にきてもよろしいでしょうか」
 おそるおそる聞いてみた。
 すると「もう来なくてもいいよ」と、またこともなげだ。三ヵ月間の悪戦苦闘はなんだったのか、不思議な思いで帰った。
 それから衰えた左足の筋肉のリハビリを始める。毎週一回マサージ師に通い針と灸をしてもらう。そして運動は、神峰公園の温水プールへ通い、足に負担のかからない水の中での歩行を一時間ほど日課とした。
 なかなか足の力は元に戻ってはくれなかったが、それから数ヵ月して、ようやく足の筋肉が付きだした。
 私の住む団地から一キロほどのところに「助川山市民の森公園」がある。この森の丘の頂は標高328メートルの助川山と呼ばれる。年末には、一日おきぐらいで、この森へ散策に出かけた。
 そして怪我をしてから10ヵ月後、ついに助川山の登頂に成功した。自宅から助川山までは約5キロ、ゆっくり歩いて約一時間の距離である。65歳を過ぎてからの自主治癒力は、若いときと比較すると明らかに減退している。もう少し歳をとっていくと、この自主治癒力は、ますます衰えていくものらしい。
「吾唯知足」という、「口」の形の水受けに、偏(へん)と旁(つくり)を付けた四文字を配した蹲(つくばい)は、禅の言葉として、依って立つ「足」を示し、人間の生きていく原理を示しているようだ。

(注) 『砥柱餘録』…馬場粂夫博士が昭和43年から書き起こされ、第12集まで発行されている。日立精神の伝承と日立の青壮年層への指針が示されている。

     
雑誌「ぱんぽん」2007年12月号(283号)
    に掲載








吾唯足知と読める
竜安寺の手水鉢(ちょうずばち)








































『ぱんぽん』2007年12月号
創刊60周年記念特別号
の表紙(古川社長の似顔絵を読者12人のお子さんに描いていただいた)
この号から井原廣一博士の『システム研究開発マンダラ』シリーズの連載が始まる



このページのトップへ戻る
    
「助川山の森」でリハビリに成功

 日立市のほぼ中央に位置するところに「助川山市民の森公園」がある。助川城址公園から4キロほど歩いたところだ。この森の丘の頂が標高328メートルの助川山と呼ばれる。太平洋を眼下に見晴らして、日立駅前にあるシビックセンターの丸いドームのある建物の見える市街全域と、北は大津岬から小名浜まで、南は那珂湊方面から銚子の犬吠埼まで、雄大な景色が展開する。
 平成18年の年末、そしてこの年始から、一日おきに自宅から助川山まで歩いている。片道5キロの往復、約2時間の散策は、足腰鍛錬のよい運動になる。助川山からの日の出や、途中の丘の稜線からの日没の風景も美しい。昨年の大みそかは日入りが午後4時33分で、翌日の元日の日出が6時49分だった。そして、5日が満月で月出が午後6時12分だった。日の出はよく見に行ったから、今年はいつもの散歩の時間を遅らせて、大みそかの日の入りと、正月の満月を見に出かけて、カメラを構えた。月の出を見るのは初めてだった。予想よりずい分と北側の海にお月様は出てきたので、カメラのシャッターチャンスを失い、松林の上におぼろ月の写真になってしまった。
 助川山の森は、16年前になるが平成3年3月7日に山林火災が発生して、山林217ヘクタール、住宅26棟を全焼する大火があった。その7年後に、火災跡地の150ヘクタールを「森林公園」として整備をはじめて、平成10年には「助川山市民の森」としてオープンした。
 今、NPO法人の「森の自然公園 助川山保全クラブ」の方々の地道なご努力で、ハイキング、野鳥や森林を観賞する自然教育の場となっている。また、植樹も行われ、クヌギ、コナラ、クリの木の苗などが植えられている。そんな中に大きなケヤキの木がある。「平成12年に宮田川橋の架け替え工事のため、この山に引っ越してきた」と、解説板に書かれている。宮田川のほとりに40年間、そして今、焼け跡の山にひときわ大きなケヤキの木は、元気な枝を伸ばしている。
 この公園の主な入り口は、青葉台団地、助川城址公園と電線工場裏の山根口の三ヶ所がある。私の住む青葉台団地の入り口には、大きな案内掲示板があり、ゆったりした、ゆるやかな傾斜の歩道が助川山のふもとまで続いているから、散歩がてら気楽に行くことができる。青葉台団地の入り口には、赤松の丘や動物観察舎があり、道の途中には、丁寧に絵入りの解説板があって、森や木、昆虫や鳥のなどの観察の仕方を案内してくれる。子どもたちにも楽しい場になっている。
 私は、平成18年はじめに足首を捻挫してしまい、ほとんど一年間は、捻挫の治療とリハビリで外出もままならない生活をしていた。杖(つえ)を使っての外出、階段の上り下りに、エスカレータかエレベータのないところには行けなかった。足に負担がかからないように、神峰公園の温水プールに通い出したのは、昨年の5月からだった。半年間のプールでの歩行と水泳などリハビリを続けた結果だろうか、10カ月が経った暮れから、急に足の筋肉が付きだした。足の屈伸、ひざを曲げてつま先で立つこともできなかった足が、それができるようになった。
 12月7日には、ついに助川山の登頂に成功、たわいもないことながら、65歳を過ぎてからの自主治癒力の減退に打ち勝つのは容易なことではない、貴重な体験をした。
「吾唯足知(われただたるをしる)」や「少欲知足(しょうよくちそく)」という言葉もあるが、文字どおり「足」= Leg の大事なこと、「ご足労さまです」などと日常使う言葉にも、足の意味をしみじみと会得した昨年一年間だった。
 助川山の森も、大火災から再生して、緑豊かな森林が育っていくのを楽しみながら、これからも助川山の散策を続けよう、と思っている。

  雑誌「ぱんぽん」2007年3月号(280号)
  に掲載


このページのトップに戻る




太平洋を見下ろす助川山




助川山の森公園からの日の入り




助川山に昇る満月











 「助川山」の章のトップに戻る
  
「考える足」と自尊死について


1.人間は考える足である
2.思考を決める一歩−「ラカンの囚人のジレンマ」−
3.「自尊死」の心得



1.人間は考える足である
 岩波書店から『考える足』という本が出版された(2012.12.20発行)。精神医学者の著者が、「私は足で考えます。足だけが何か堅いものに出合うのです。脳波について数多く見ましたが、思考の痕跡は何も認められませんでした。」と、書かれている。
パスカルの「人間は考える葦である」と、脳で思考する人間を自然の生物の中で最も弱そうな葦に例えた言葉であるが、この脳中心主義に対する反論の著である。人間として存在する以上、行動して、「考える足」じゃなければならないと主張する。
 2本足で立つ、そして動く、働くことから思考が進む、新しい発想や問題の解決ができることを、精神分析の結果から多くの事例が示されている。だから老後の座学などは止めたほうがいい。足を使って歩いて行って、よく見て、多くの先学の話を聞くことが大事で、脳の活性化になるのだ。足の衰えが、脳の認知症の始まりとなるのだ。考えることと足の動きは同期しているようだ。身体の動きが衰えてきたら、頭のはたらきも鈍くなっていくのだ。
 仏教では「解学」と「行学」の2つの学び方、道があると示されている。「解学」は仏教の経典をもっぱら読み諸家の解釈を学び習うことである。一方「行学」は、その学んだことから一歩踏み出していくこと、「学仏大悲心」ということばがあるが、仏の大悲心を体解して味得していく道である。それは決して自らの修行によって得られるものではない。仏の大慈悲心に目覚めること、そして日々の生活や行動があると、仏教でいう行学すなわち「考える足」と示している。私はそのように解釈した。
 仏教とは、仏の教え学ぶことであり、仏に成る教えである。その仏教の教えを学ぶ解学と、学んだことにより行動が起こる行学は別々に2つあるのではない。表裏一体のものでなければならない。これを「解行一如」と示されている。解学をする考える頭と、行学をする足とが一つになって「考える足」の人がいる。
 右の写真はブッダがさとりを開かれた成道の地インドのブッダガヤ大塔の正面にある仏足石である。今日あるような仏像はブッダが入滅してから200年ほど以後の紀元1世紀末のころ、ガンダーラ地方で初めてつくられたという。ブッダが入滅して、仏像を崇拝するようになる以前から、古い仏教徒がブッダの超人性を示す仏足石を拝した心がある。日本には、奈良の薬師寺の金堂には国宝となっている仏足石が安置されている。薬師如来の坐像の足裏に、千幅輪とよばれる見事な文様が描かれている


2.思考を決める一歩−ラカンの囚人のジレンマ−
 とんちクイズにこういうのがある。
「最初は4つ足で、次に2本の足で、最後に3本の足で立つ動物はなんだ」
 はえば立て、立てば歩めの親心、と4つ足ではう赤ん坊が、2本の足で立って歩くようになる人間。最近は、しゃっきりと腰を伸ばして元気な老人が多くなったが、一昔前の農業国の日本には、年を取ると腰が曲がり、片手を腰の上に乗せて、杖をついて歩く老人が多かった。最後は3本足で歩くのが人間だ。杖とは智恵でなければならない。一足増えて、いよいよ逞(たくま)しいのである。

 次の問題は、本『考える足』に載せられていた問題。思考を進めて正しい解決を引き出すためには行動がなければならないことを示している。少々難しいが、ゆっくりと人の動き、足の運びを想定して考えていると、なるほどと合点が行く。

・ある監獄に3人の囚人があり、看守は全員に背中に白丸のマークのTシャツを着せる。
・囚人たちは、黒丸のTシャツが2枚、白丸のTシャツが3枚あることは知らされている。
・各囚人は自分の背中のマークは何色か分からないが、他の2人の背中のマークを見ることはできる。
・囚人たちは、他の2人のマークだけから自分のマークが白か黒か判断して、監獄の出口で待つ刑務所長に正解を告げることができれば解放される。
・さて、どうすれば囚人は正しい答えがえられるだろうか。

 解答は次のように相手の行動を見ることにより得られる。
1.Aは、BとCの背中に白丸のマークが張られているのを見る。このままでは自分の背中のマークが白か黒か判断できない。
2.そこで、Aは、ひとまず「自分は黒だ」と仮定する。
3.その場合、BとCとは2人とも黒と白を1つずつ見ていることになる。
4.そこでAは、Bがどう考えるかを推測する。Bが「自分は黒だ」と仮定しているのなら、そのときCはAとBがともに黒であるのを目にしているので、「自分は白だ」と判断し、出口に向かって走り始めるはずだとBは考える。
5.ところが、Cは動かない。それを見てBは「自分は白だ」と結論する。
6.Cも同じように考えるだろうから、Aが黒だとすれば、BとCは同時に出口に向かって走り始めるはずである。
7.ところが、BもCも動かない。そこでAは「自分は白だ」と結論し、出口に向かって一歩を踏み出せる。しかし、BとCも同じように推論するため、結局3人は同時に足を踏み出す。

 〜ところが3人が、本当に同時に足を踏み出したのか疑念が生ずる。
Aが「自分は白だ」と結論できたのは、BとCが共に動かなかったからである。しかし、上に見た通り、3人は同時に足を踏み出す以上、Aにしてみると、BとCがAより先に足を踏み出すことはありえない。そこでAは少し結論を早まったのではないかと考える。BとCも同じ疑念を持って立ち止まる。
 このあとの解決に至る思考・方法が『考える足』で著者が紹介する精神分析学者ラカンの論理的時間とよぶソフィズムの真理追求の見せ所であり、
8.3人は、その後の行動から、「自分は白だ」と何の疑念もなく同時に出口に向かって足を踏み出すのである。
 〜その後の行動と思考は本『考える足』をご覧いただきたい。


3.「自尊死」の心得
 未来を予測できないとき、しかし必ずやてくる未来に死がある。明日のことも、次の一歩を踏み出そうとするとき、予測できない場所に踏み入ることである。その一歩は未知の将来に一歩渡る
ことであり、決して後戻りできない大きな思考的な行為といえる。胆力を要する行動を伴うものである。
 つまり頭で考える「思考」は行為を伴うなければならない。従って真の「思考」とは、誰も頼れる者もいない孤独の中で歩いて行ける者、道なきところになお一歩進めて新しい道を創る者、自立するための二本の足を持った者だけが許される行為なのだ。
 第一の練り上げる思考は脳の思考としてなされる。人工知能といわれるAIや広くインターネットを活用してもいいだろう。しかし第2の「思考」は脳でなされるのではない。頭で考えること表現されることは、与えられた情報から未来を予測したり、危険を回避したりするものだ。人の生き方の肝心なところとなる決断は、脳のロジックからは生まれようがない。越えがたい線を一歩踏み超えて進むこと、「賽(さい)は投げられた」といってルビコン川を渡ったカエサルの行動が真にこれに当たる。また「二河白道」の説話がある。左に燃え盛る炎の流れる川があり、右には激流が波打つ川がある。その間に15センチほどの道があり、賊に追われた旅人の行く先は真にこの道を進むしかない。

 すべての思考は「賽の一振りであり」「二河白道」、つまり脳のロジックからだけでは生まれない、一つの賭けなのである。ここにおいて「足が考える」行動で進むしかないことに気が付かなければならない。
 自分らしく生きて納得して最期を迎えることは真にこのような場面であり、人はいやおうなしに迎えるのである。「ピンピンコロリ」がいいと言っていても、そのように上手く行くものではない。

 最後に向井先生と和田先生の本を読んで、自分なりに老後の人生の生き方、そして「自尊死」の心得をまとめたみた。
・自分の人生は、我慢して長生きすることを考える
・つらい治療より、心と身体が楽な方を選ぶ
・心と体の結びつきを大事にすること
・いざというとき、どう死にたいかを考えておく
・医者の脅しを真に受けない
・若い人や若いシニア向けの健康常識をそのまま信じない
・延命治療、脳死、献体などについて家族と話し合っておく

 老後を生き生きと楽しく生きて行くために、
「死なないように、病気にならないように」と、過剰に健康を気遣い、息を潜めて我慢することが、楽しい生き方だとは思わない。自分の意思で、かぎりある人生をまっとうすることこそ、「自分らしい死」を迎える第一歩だと思う。
 『徒然草』第93段には、こんなことが書かれている。
「なぜ、人は皆、心から生きる喜びを味わうことができないのでしょうか。それは『死』を恐れていないからです。いや、恐れていないのではなく『死』が近づいていることを忘れているからなのです」
 「死」は明日にでもあるのですから、かぎりある「生」を自分の意志でまっとうすることこそ、「自分らいい死」を迎える第一歩だと思います。


  参考図書
  1.『考える足』向井雅明著 岩波書店 
       平成24年12月20日発行
  2.『自尊死のすすめ』和田秀樹著 アーク出版
       平成24年9月10日発行
 
       以上 日立市立多賀図書館蔵書





 










































仏足石
































背中に白丸マークの
Tシャツが3枚


背中に黒丸マークの
Tシャツが2枚 










   トップページに戻る