仏教入門-2ページ
 「仏教入門-2のページ」の目次        トップページに戻る

                                 

写仏画 『仏足跡』を描く 2020.9.6
写仏画 『千手観音菩薩』 若松千恵子作品 2016.7.5 県立天心記念五浦美術館
『石に言葉を教える』 
2014.1.13
慚愧よく吾を救う  2013.719
報恩講  2013.1.7
「ジャータカ物語」 布施行について
『石に言葉を教える』 2014.1.13
慚愧よく吾を救う  2013.719
報恩講  2013.1.7
「ジャータカ物語」 布施行について

「縁起」の実践・「空」の実践  2010.9.23
蓮の花ー蓮華(れんげ)と仏教  雑誌『「ぱんぽん』2010年9月号(294号)に掲載
本『わくわくどきどき』 瀬戸内 寂聴著 幻冬舎
本『無量の光-親鸞聖人の生涯』 津本 陽著 文藝春秋
本『愚の力』の紹介 大谷光真(浄土真宗門主)著 文藝新書
〇 親鸞聖人の関東ご旧跡巡拝旅行 (「旅のしおり」より抜粋)
「お寺に行こう」    月刊『ずいひつ』2009年6月号に掲載
「二河白道」      
雑誌『ぱんぽん』」2009年3月号(288号)に掲載

トップページに戻る
 
   『仏足跡』を描く


 
 ブッダは、35歳で悟りを得て、80歳で入滅されるその直前まで45年間を布教のために歩き続けられた。ブッダが入滅して、仏像が崇拝されるようになる以前から、古い仏教徒にはブッダの超人性を示す仏足跡を拝する心があった。ガンダーラ地方で初めて仏像が作られ、崇拝されるようになったのは、ブッダが入滅してから500年以上の後の紀元1世紀末のころといわれている。それまでは各地にブッダの聖地として仏塔が建立された。インドでブッダが悟りをひらかれた成道の地ブッダガヤの大塔の正面にある「仏足石」に仏足跡が彫られている。日本では薬師寺に如来の足裏に仏足跡を観ることができる。
http://jyushin-rujyo.com/ashi.html
「足の裏に感謝」を参照ください。

ブッダ・仏さまの姿のもつ美しさ、衆生を救うという機能美を仏の三十二相といわれている。
西原祐治著『仏さまの三十二相』には、三十二相の各相について分かりやすい法話が書かれている。
その一つに「足下二輪相」がある。ブッダの足の裏に文様があり千福輪ともいわれている。
ブッダが悟りをひらかれて最初に法を説かれたことを「初転法輪」という。仏法の宝の輪は、四方八方自在に転じて、災いを治め悪魔を砕き、常にあらゆる人々を慈しみ、怒りと欲と愚かさを照破する優れた特性をあらわしている。

「仏足跡」について
★梵王頂相
 ・かかとに五つの山がある
 ・山の両端には雲が浮かんでいる
 ・雲の間には、太陽のように遍く光り輝く輪宝がある
 ・輪宝の上部には、仏法僧の三宝がある。
★千福輪相
 足の裏の中央の車輪に似て幾重にも輪をかたどった相がある。千の筋をもつ車輪は迷いを砕く仏力の象徴で、煩悩の闇を打ち砕く働きがある。
★金剛杵相(こんごうしょそう)
 親指の下に鉾がある。その鉾に紐が結んであり、魔法を寄せ付けない力を持っている。
★双魚相
 魚が二匹描かれている。インドのヒンドゥー教の神ヴィシュヌの変身といわれている。ヴィシュヌ神がブッダに変じられて永遠の命と生命力が与えれたといわれる。
★宝瓶相
 ブッダの説法は宝に満ちあふれていることを表す。そのとなりの法螺貝で、その小さい口から息を吹き込むと勇壮な音が堂々とあたりに響きわたる。ブッダの説法は、この法螺貝のように四方八方どんな遠いところまで響き、一度その音を耳にすると自分の犯した罪が滅失するといわれている。
★月王相
 親指には月の相がある。インドは暑い国だから比較的に涼しい夜の月の光は、有難いものの象徴とされる。この月は赤々と燃えている。
★花文相
 人差指から小指までには、花の形を変化させた瑞祥七相をあらわしている。



     千手観音菩薩 若松千恵子師作品



 
『石に言葉を教える』


 日立市と常陸太田市の一帯に広がる多賀山地には5億年前のカンブリア紀の地層が発見されている。そこから採取された岩石のが右の写真だ。5億年前は中国大陸の一部だった。それから4億年間かけて大陸から離れ日本海ができ、今から2千5百万年前に日本列島がつくられたそうだ。茨城大学の研究成果だ。この地方では2年前の3.11大震災後の今も余震が続くが、5億年前からある大地がゆれていると思うと、海に沈んでしまうなどと余計な心配はいらない。昨日(1/10)同期会の新年会で、茨城大学につい最近まで席を置いていた友人高木宣輔さんから5億年前の岩石を見せていただいた。

 その石を、ジッと見ていて、10年ほど前に読んだ柳田邦男著の『石に言葉を教える』という本を思い出して読み直してみた。東北地方のどこか山間の村で初老の男が小さな渓流のほとりにある大きな角ばった石に向き合って座り、しきりに話しかけている。男は石に言葉を教えているのだという。もう13年も前から男は倦(う)むことなく毎日続けていると村人たちはいう。どうやって教えるのか、想像力を失った大人の狭い常識では、あるいは科学技術万能の経済社会の常識人には、とても理解できない話である、と柳田邦男は書きだしている。
 年老いて、何かを始めるという創造力を忘れない生き方が大事だと、日野原重明先生が『生き方上手』に書いていた。作家五木寛之は『人生の目的』の中で、人生の目的は自分だけの「生きる意味」を見いだすことであり、それは一つの物語を作ることだと書いている。それは簡単なことではない。石に言葉を教えるほどの発想が無くてはできない。日常生活の中にそれを見いだして満足していても、諸行無常の真理の世界に生きている我々には儚いことと知るべきだ。
 現代人の多くは、すでに宗教とか信心という言葉を、ほとんど失っている。ピンピンコロリがいいと自己中心的に生きて医学に頼り、核家族化が進み老々介護や独居老人が急激に増えている世の中で、最新のIT(情報処理)技術の恩恵も受けることなく、金や財産だけを頼りにして、目に見えない尊厳とか矜持(プライド)が、近いうちに必ず保たれなくなっていく自分自身に気が付いていない、見失っている多くの人がいるのではないか。
 石に言葉を教えるほどの物語はできなくても、すでに共感できる人々が作った偉大な物語を「信じる」という道がある。その一つがお釈迦様の説かれた、生老病死の苦の道、人は皆必ず死に至る。生れ老い病を受け死に至る。その後に続く浄土がある。
 「浄土への物語」を書こうと思っている。



 2014年1月13日記




「助川山」の章のトップに戻る



































「助川山」の章のトップに戻る
 
  二つの白法あり、慚愧(ざんぎ)よく吾を救う
  一つは慚(ざん)二つは愧(ぎ)なり。

                   『涅槃経』


 人間には自我への執着(しゅうじゃく)、自己愛、自尊心、打算といった自己中心的な考えから決して抜け出せない心の煩悩があります。われわれ凡人は、出家して修行することによってこの煩悩を捨て去ることはできないのです。「懺悔(ざんげ)」することにより神仏に近づき心の安心は得られるでしょうが、本当の自分を見すえたことになるでしょうか。
 煩悩(ぼんのう)という、この身をわずらわす心の中に鬼をもっている自分の姿を、愚者として自覚するとき、本当の自分が分かってくるように思います。
 
 「慚(ざん)」とは、「自分の心を斬(き)る」ということです。我々は、「我」にとらわれ、「我」を正当化して、他を悪人として自分を善とした生き方をしています。「あの人はダメだ」「あれは何もわかっていない」と、自己を正当化し、他人の心を斬って生きています。全く自らのあり方を恥じることなく、他に恥じることのない心で他人を苦しめている自分を見直す、それが「自分の心を斬る」ということです。
 「愧(ぎ)」とは、「自分の心中の鬼を見る」ということです。だれでも自分が一番かわいいのです、自分を悪人にすることや弱者にはしたくありません。自分の「我」を傷つるような人がいれば、それは鬼のような人だと思います。本当は、どこまでも自分の「我」にとらわれて、自分が善、他人が悪と、責めながら生きている自分が鬼なのです。自分の心の中に鬼を見ると、他を責めるのではなく、他の人と共に教えられ、気づかされる人生が始まります。
 「慚愧」は、自らに恥じ、他人に恥じ、天に恥じ、みずから罪を作らず、発露して人に向かう。他を教え、自他ともに悪をつくらない人生になります。

 「漸」とは自らの心を斬ること、過ちを自ら恥じて、反省すること。斬らなければならないのは、常に「自分を正(善)」とし、「他を悪」としている自分の心です。過ちをおかしたら、周りの人を苦しめながら、全く自他に恥じることのない自分の心を斬って謝罪しならなければならないのです。
 「愧」とは、「心に鬼を見る」ということです。人は自分が誰よりも可愛いので、決して自分を悪人にすることはありません。いや、可愛い自分の「我」を大事にしています。自分の心の中の鬼を見るとき、他の人に恥じ、天というみんなに恥じていく心がおこるものです。
 「懺悔(ざんげ)」は宗教上の言葉としては、「犯した罪を悔い、神仏の前で告白すること」ということですが、「慚愧(ざんぎ)」はもう少し奥深い意味をもっています。

 妙好人(みょうこうにん)と讃えられる浅原才市は「煩悩に目鼻をつけたわが姿」といい、自画像の額に角を書いた画を残しています。

 ≪2013.7.19 トップページより移す≫



 

















「腹がたったら念仏もうせ
仏が火のての水となる」
(才市)

「さびしくなったら念仏もうせ
一人じゃないと
南無阿弥陀仏」
(凡夫)










「助川山」の章のトップに戻る
 
京都本山の報恩講に参拝
  2013.1.7

パソコンでいろいろな情報の伝達の付き合いは楽しいですね。

うちの猫に言われました。
「あほになれ あほにならねば 此の度の
浄土参りはあやうかりけり」
これは実は昨年の築地本願寺の掲示板に書かれていた言葉です。14日から京都本山の御正忌報恩講に参拝してまいります。

  報恩講
 報恩講は宗祖親鸞聖人の遺徳をたたえ、その恩を報ずる法要です。親鸞聖人33回忌に際して報恩講と名付けられて以来、毎年宗祖の御命日を縁として、脈々として営まれています。
 親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願の教えを明らかにされて、その90年の御生涯を念仏の道一筋に歩まれました。今、私たちが浄土真宗の救いのよろこびにあえることも、聖人のご苦労のたまものです。
 報恩講に際して蓮如上人はお示しになられました。
 「すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身を今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことの聖人報恩感謝の懇志にあいかなうべけれ」

他力の信心を得て浄土の往生を決定することこそ、親鸞聖人の御恩に対するなによりの報謝となるのです。

親鸞聖人(1173年5月21日ご誕生
       1263年1月16日ご往生)


 






「猫のページ」へ




「助川山」の章のトップに戻る
 
   「ジャータカ物語」 布施行について


 2011年の年賀状でKさんから、うさぎ年にちなんで「ジャータカ物語」を紹介していただきました。
 昔、森で猿と山犬とカワウソが仲良く暮らしていました。ある日、修行者が托鉢に来ました。カワウソは赤魚、山犬は肉と大トカゲと牛乳、猿はマンゴーの実を布施しました。しかし、兎は施すものを持っていませんでした。兎は修行者に言いました。「あなたは薪を集めて火をおこして下さい。私はその火に飛び込みます。私の体が焼けたら、その肉を食べて修行に励んで下さい。」しかし薪の火は、兎を焼きませんでした。修行者に姿を変えていた帝釈天は、兎の行いが世界中に知れ渡るようにと、山を押しつぶして出した汁で、月面に兎の絵を描いたという。
 インドの人は、月を別名「兎をもてるもの」「懐兎(エト)」と呼んでいるそうです。  これは、仏教でいう「利他」の行のたとえ話ですね。自分の出来る精一杯のことをしたことが素晴らしい、と気づきました。
 以上が年賀状に書かれていた「ジャータカ物語」のお話です。

 大乗仏教では、他者の救済(衆生の済度)を第一義にしています。「上求菩提、下化衆生」(上に菩提・さとりを求め、下に衆生を救済・教化する)の精神で修行をします。その菩薩の修行を菩薩道といいます。菩薩とは正式には菩提薩?(ボダイサッタ)といい、「さとりを求める人々」とか「さとりをそなえた人々」という意味です。
 この大乗の菩薩の歩む道の代表が六波羅蜜(ロクハラミツ)です。
 六波羅蜜は、つぎの六つの行のことです。
 ・布施(フセ)
 ・持戒(ジカイ)
 ・忍辱(ニンニク)
 ・精進(ショウジン)
 ・禅定(ゼンジョウ)
 ・智慧(チエ)
 ここで、利他の行として「布施」について、仏教ではどのような行なのか見ておきましょう。 人に対する施(ホドコ)しとか施与(セヨ)のことです。
 ・財施(ザイセ)・・財・物を施すこと
 ・法施(ホウセ)・・教法、教化、教えを施すこと
 ・無畏施(ムイセ)・・不安に思っている人に、安心させる施し
 この3種があります。布施は決して他人に何かを与えて喜ばせることではありません。自分の所有しているものを他者に与えることにより、そのものに対する執着を取り除くことが目的です。執着の根源は自分にあるのですから、自分の命にすら執着しない「捨身」という厳しい布施があるわけです。
 兎が火の中に身を投げ出したというのも、この捨身の行のたとえなのですが、そのような厳しい修行が仏教では説かれているだけではありません。
 無財の七施という、誰でもできる布施が説かれています。
 ・眼施(ゲンセ)・・優しいまなざしで人に接する
 ・和顔施(ワゲンセ)・・なごやかな顔つきで人に接する
 ・愛語施(アイゴセ)・・優しい言葉で人に接する
 ・身施(シンセ)・・人に礼をつくし、奉仕すること
 ・心施(シンセ)・・愛情のこもった心で接する
 ・床座施(ショウザセ)・・座席や地位をゆずること
 ・房舎施(ボウシャセ)・・家、土地などを分け与えること
「布施」は、このような大乗仏教の衆生の救済という利他の行です。成仏の行としたり、その見返りを求めたりする自力の修行というものではなく、はからいの心を捨てた他力の行でなければなりません。

 以上『法の友』第50号藤丸要師『浄土真宗における「利他』を参照しました。

 

「助川山」の章のトップに戻る






















「助川山」の章のトップに戻る
 
 「縁起」の実践・「空」の実践


 人生は思い通りにはならないものです。苦労には四苦八苦するといいます。 終わりなき人生を生きるために、 高齢期に入れば終わりなき老いを生きぬくために、四苦八苦の苦悩と向き合って、付き合って生きていかなければなりません。
 終わりなき老いを生きるために重要なことは「社会との関係」を継続することです。社会との関係性を生み出す場に自分の身を おくことです。 社会とのつながりは喜びの源泉であり、苦の源泉でもあるのです。だから関係性は生命活動と直結していると言えます。 社会との関係性を維持していれば老齢化しても、決して認知症にはならないでしょう。
 このことを、釈徹宗師は、 ひらたく、「お世話上手な人」と「お世話され上手な人」と言っています
 お世話され上手でない人、下手な人は、お世話されることが嫌いな人、自信がない人、お世話をお金で買おうとする人です。
 「お世話され上手な人」の多くは、社会に積極的に関わるけれど、あまりこだわらな人です。
 このことを、釈徹宗師は「縁起の実践・空の実践」と言っています。社会と関わることを「縁起」の実践、 囚(とら)われないことを「空」の実践と呼んでいます。
 「社会と関わる」こと「とらわれない」ことが、四苦八苦の人生から喜びを見出すカギになります。


                          (2010.9.23)
 

        「助川山」の章のトップに戻る


四苦八苦:生・老・病・死   
        愛別離苦
        怨憎会苦
        求不得苦
        五?盛苦
 ※「五?(うん)盛苦」の?の字は、正しくは糸偏が付く、色、受、想、行、識のこと。この五つで人間の身体と精神は成り立っている。思うようにならない人間の心身から生ずる苦しみ。
  色=肉体
  受=感覚、感受作用
  想=知覚、表象作用
  行=意志、記憶作用
  識=知識、認識作用
例えば、
 「がん」は「色」の病
 「認知症」は「受、想、行、識」の病

縁起:仏教の基本原理、全ての事象は縁によって起こっている。

       「助川山」の章のトップに戻る



 
蓮の花-蓮華(れんげ)と仏教


 蓮(はす)あるいは睡蓮(すいれん)は共に植物図鑑によるとスイレン科に属する。
 水面に浮かぶ睡蓮の花は、フランスの印象派の画家クロード・モネが描いた風景でよく知られている。睡蓮は、紀元前5世紀の古代エジプトの遺跡にも見ることができる。ヨーロッパで品種改良が進められて、日本に洋種の睡蓮が導入されたのは、明治時代になってからといわれている。
 一方、蓮は、わが国で自生種があったという説と、インド・中国から渡来したという説がある。古代インドの天地創造の神話には、蓮華の上に座した梵天(ぼんてん)が万物の世界を創造すると説かれている。インドでは、涼しい水辺に咲く蓮華は苦しい現実の対極にある理想の境地を象徴するものとして古来親しまれ愛好されてきた。仏教では蓮華(れんげ)といい、極楽浄土を象徴する花である。
 仏教では、泥中に生じても、その泥に汚されず清浄に咲く花を蓮華といって経典にも多く描かれている。蓮池の清涼とその水面に咲く蓮華は、『阿弥陀経』には、極楽浄土の蓮華を次のように説かれている。
「宝池の蓮華は、その大きさが車の輪ほどあり、色は青、黄、赤、白とそれぞれが、青光、黄光、赤光、白光を発して輝き、なんともいえない香気を一面にただよわせている。」
『華厳経』の世界を「蓮華蔵世界」という。華厳経の蓮華とその中にある胎蔵とうイメージは、密教の大日経の世界を形成している。胎蔵界曼荼羅(まんだら)の中央に八葉の赤色の蓮華の図案が見られる。これは人間の心臓が開き、そこに潜在した仏の一切功徳が流出した様を示しているという。
 仏教における蓮華のもう一つの用いられ方は、仏・如来あるいは菩薩の台座“蓮華座”となることである。仏像の最も一般的な形式は、蓮の花の開いた様をかたどる蓮華座、略して連座または蓮華台、蓮台ともいう。蓮台は訓読して(はちすのうてな)ともいう。

 この神秘な花の風情を僧正遍照は次のような歌で詠嘆した。
「はちす葉の濁りにしまぬ心もて 何かは露を玉とあざむく」

 ―― 沼の濁りのなかで清らかに咲く蓮華は、なぜその葉の露を真珠のように見せて人をあざむくのか ――と、自然の清らかさの中に、仏の功徳荘厳を見ている。
このように蓮華は尊いものとして親しまれてきた。阿弥陀経にも説かれているように蓮華は仏教思想を代表する花である。
            
                参考文献:『園芸大百科事典』講談社



   
     『慈眼』西福寺聞真会H20.5発行より


「助川山」の章のトップに戻る

さいたま県
行田市・古代蓮の里
 


   





(写真は、行田市・古代蓮の里で
井上憲一氏撮影による)




「助川山」の章のトップに戻る
 
  本『わくわくどきどき』
 瀬戸内 寂聴 幻冬舎
 2010年4月25日発行
 
 寂聴さんの元気の秘訣が詰まった珠玉の名言集
 気軽に読める大きめの文字と文章量、
 草花や石仏の写真が色鮮やかに多数挿入。


   この世は不思議に満ち満ちている
   だから、挫折もある。感動もある。
   88歳を過ぎてなお、前向きに生きる。

○ 生きることに疲れたら
   自分の人生は誰にも頼らず、
   自分の努力で変えなさいというのが
   仏教の教えです。
   < 信ずるというものが無ければなりません >

○ 悲しい境遇に立たされたとき
   人は生かされている限り、
   その生には意義があります。
   大きなことは出来なくても、身の回りの人たちに
   愛と安らぎを与えることが出来れば、
   それで十分なのです。
   < 信ずるものがあるとき、安心が得られます >

○ 後悔ばかりで前に進めないとき
   悲しい過去は思いきって切り離し、
   切り離すとは、切り捨てることではありません。
   悲しみはその場にとどめておいて、
   今の生活には持ち込まないということです。

○ 老いを感じたとき
   新しいことに挑戦すること。
   おしゃれや恋する気持ちを忘れないこと。
   このような心構えで生きれば、
   老いることは、決して怖くありません。

○ 人間関係に疲れたとき
   人間は一人ひとり違っていて当たり前。
   違う体つきで、違う心で、
   違う才能を持った人が集まっているから、
   世の中は素晴らしい。
   < 信ずるものがあれば、一人でも生きられます >

        あおい おそらの そこふかく
        うみの こいしの そのように
        よるが くるまで しずんでる 
        ひるの おほしは めにみえぬ
        みえぬけれども あるんだよ
        みえぬものでも あるんだよ

        ちって すがれた たんぽぽの
        かわらの すきに だァまって
        はるの くるまで かくれてる
        つよい そのねは めにみえぬ
        みえぬけれども あるんだよ
        みえぬものでも あるんだよ
                            詩:金子みすず
 

 <>内と金子みすずの詩は愚足凡夫の追記


 


















「助川山」の章のトップに戻る

 
<縁起>

 私たちの目に見える形のある世界は、形のない願いや働きによって支え導かれている、という真実に目を向けるとき、「空」の世界に目覚める。
 仏教の根本原理は「縁起」です。全ての現象は「縁のよって起こっている」のです。








      「助川山」の章のトップに戻る
 
 
  本『無量の光-親鸞聖人の生涯』上下の紹介
 津本 陽 文藝春秋
 2009年12月10日発行
 『歎異抄』の言葉が親鸞聖人の肉声のように響いてくる。そこから親鸞聖人の生涯、真の教えを説き起こす。
 著者自らが熱心な門徒ととして、末法の現生に問う生きる力とはなにか。
 光明はあまねく十方世界を照らし、念仏衆生を摂取して捨てず、と観無量寿経に説く通りである。弥陀の本願は、老人、若者、善人、悪人をわけへだてすることがない。ただ、本願の「救い」をひたすら信じる心だけが肝心なのだと知らなければならない。
 物語は、茨城の稲田の草庵から京都に戻り、著述に没頭する68歳の聖人のもとに、関東から門弟が教えを問うために訪ねてくる。そこから追想する形で比叡山の修行時代、生涯の師・法然聖人との出会い、越後への流罪、関東への布教の旅立ちなど、丹念にたどる。筆者の渾身の大作である。


 




「助川山」の章のトップに戻る

  本『愚の力』の紹介
 大谷光真(浄土真宗門主)著 文藝新書
 2009年10月20日発行
 今、不安の時代に、法然が提唱し親鸞が実践した「愚者」という生き方は、わたしたちに多くのヒントを与えてくれました。
 「悪人」とは何か、「自力と他力」とは?
 『愚者となって往生す』という親鸞のことばは、慚愧(ザンギ)と反省のない生き方が、快楽と消費に生きがいを求める煩悩だらけの現代人の生き方であると示されて、心の問題を提起されています。

 二つの白法あり、慚愧(ザンギ)よく吾を救う
 一つは慚(ザン)、二つは愧(ギ)なり。 『涅槃経』

 「懺悔(ザンゲ)」は宗教上の言葉としては、「犯した罪を悔い、神仏の前で告白すること」ということですが、「慚愧(ザンギ)」はもう少し奥深い意味をもっています。
 人間には自我への執着(シュウヂャク)、自己愛、自尊心、打算といった自己中心的な考えから決して抜け出せない心の煩悩があります。われわれ凡人は、出家して修行することによってこの煩悩を捨て去ることはできないのです。「懺悔」することにより神仏に近づき心の安心は得られるでしょうが、本当の自分を見すえたことになるでしょうか。
 煩悩という、この身をわずらわす心の中に鬼をもっている自分の姿を、愚者として自覚するとき、本当の自分が分かってくるように思います。


 








「助川山」の章のトップに戻る

 親鸞聖人の関東ご旧跡巡拝の旅行
より  
H21年6月25~26日

   真仏寺  本泉寺  法竜寺  ←(寺名をクリックする)
 
 親鸞聖人お田植えの御旧跡
            真仏寺
      開基:真仏房(平太郎)
                                          茨城県水戸市飯富町3427

 常陸の国那珂西郡大部の郷(飯富町)に住み、親鸞聖人の教えを熱心に信仰する平太郎という人がいた。
 平太郎は、健保6年(1218年)稲田の草庵より聖人を招き、百日間の念仏弘通を蒙った。このときに、有名な聖人お田植えのエピソードがある。
 農民たちが歌を歌いながら田植えをしているが、念仏の声がない。聖人は自分から田んぼに降り、田植えの列に加わった。農民も喜び、お田植え歌をくちずさみつつ、田植えをしたという。

 「しんらんさまの田植歌」 
  五劫思惟の苗代に 
  兆載永劫のしろをして
  一念帰命の種をおろし
  自力雑行の草をとり
  念々相続の水を流し
  往生の秋になりぬれば
  このみとるこそ うれしけれ
  南無阿弥陀仏
  南無阿弥陀仏

   
 (右の写真をクリックすると
 「衆会」の合唱がお聞きいただけます)

 

  真仏寺から歩いて15分ばかりの田んぼの中に「御田植えの御旧跡」の石碑が建っている。
 後年、平太郎は、領主佐竹氏について紀州熊野権現参りに同行したのだが、念仏者の身で神に詣でることに迷いを持っていた平太郎は、都にのぼり聖人を訪ねて伺うと、「夫聖教万差なり、何れも機に相応すれば巨益あり、唯有浄土一門可通入路」と諭され、参詣する。その夜、霊夢を受け、仏恩を喜び、師徳を尊んで、帰途再び京に聖人を訪ね、弟子となって法名を真仏房とたまわった。帰郷後は大部郡念仏道場を真仏寺と改めた。
 真仏寺には聖人自作と伝わる阿弥陀如来像が安置されている。
                                                  (大部山真仏寺)



 真仏寺の本堂



















写真をクリックすると「田植歌」が聞けます
   作曲:赤瀬川恵実
合唱:混声合唱団「衆会」



「助川山」の章のトップに戻る

  二十四輩第二十四番
              本泉寺
     開基:唯 円 房
                       茨城県常陸大宮市野上1264

 本泉寺の開基は、鳥喰の唯円房である。唯円といえば、誰もが歎異抄を思い出すが、この唯円については一人説・二人説・三人説とあり、いまだに判然としない。歎異抄の撰者といわれる河和田の唯円とは別人とも同一人とも、学者によって説が別れている。
 鳥喰の唯円は、本泉寺縁起によると、俗姓を鳥喰六郎兵衛朝業といい、常陸国那珂郡鳥喰村に住し、五千石を領していた。安貞元年(1227年)三月親鸞聖人の門に帰し、法名を唯円と授かる。その後、宝治二年(1248年)鳥喰村に一宇を建立。これが本泉寺のはじまりである。
 如信上人が奥郡の布教に情熱を傾けていたことはよく知られているが、唯円は文永九年(1272年)二月以来、如信上人の後見役として付き添い、さらに正応元年(1288年)からは覚如上人の後見役となり、教団確立のためにつくしたという。如信上人の後見役になった時は八十一歳、覚如上人についたのが九十六歳で嘉元元年(1303年)二月十五日に、百十一歳で大往生と、長寿を保ったといわれる。
 時を経て、本泉寺は二度の火災の不幸に遭っている。一度は天正十八年(1590年)江戸氏と佐竹氏が争ったときであり、二度目は慶安二年(1649年)落雷による焼失である。二度とも、古河へ難を避け浪寺となった。第一回の時は寛永八年(1631年)までの三十九年間、二度目は寛文四年(1664年)水戸光圀の招請で現在地に本泉寺を再建するまでの十五年間である。
 現在は、境内に隣接して保育園が建ち、優しい空気が流れる本泉寺である。

                                           

 
本泉寺の本堂




ご住職のおはなし

 
 本願寺二世如信上人往生の地
              法竜寺
      開基:乗 善 房
                        茨城県久慈郡大子町金沢

 親鸞聖人の孫の如信上人は、嘉禎元年(1235年)、京都で生まれた。幼いころから聖人の膝下に育ち、年を経るごとに、聖人の風貌をそなえたという。
 如信上人は東国に思いをはせ、関東に下り、奥州白河郡大網東山の郷に居を占め、親鸞聖人から受け継いだ本願の教えの伝道に、力を注いだ。
 如信上人で忘れることができないのは、いわゆる「報恩講」(祥月忌)である。如信上人が住んだ大網から、毎年十一月(旧暦)には京都にのぼり、祖父親鸞聖人の法要をいとなみ、墓前に御供米をそなえたという。本願寺三代の覚如上人は、上京してきた如信上人から、親鸞聖人の教えを受けた。
 このようにしながら、関東の地をはなれず伝道にはげむ如信上人の徳を仰ぐ人々が多かったのは当然といえよう。
 上金沢に庵を結ぶ乗善房もその一人であった。正安元年(1299年)十二月、乗善房は如信上人を自らの草庵に招き、その教化を蒙った。おそらく京都での報恩の御忌をすませて、大網への帰途の如信上人を招請しての法莚であったと思われる。
 しかし、長い旅の疲れに加え、長年の伝道の疲れもあったであろう、如信上人はこの地で病に臥し、翌年(1300年)一月四日、ついに六十六歳の生涯を閉じたのである。遺骨は上金沢の庵のある場所に埋められた。
 現在、如信上人の墓はうっそうと枝を広げる銀杏の巨樹に守られている。この銀杏は、延慶四年(1311年)如信上人十三回忌にこの地を訪れた覚如上人の手で植えられたものという。また、境内に同様にそびえるカヤの大木は如信上人御手植えのものといわれる。
 明治以降、法竜寺は真宗大谷派の管轄になり、現在は無住寺であるが、数少ない檀家によって護持されている。
                                             


法竜寺本堂(H20.11撮影)




法竜寺本堂でのおつとめ




 
 
  エッセー「お寺に行こう」


 築地本願寺の正門を入ると左手の角に親鸞聖人の立像があり、その左手に九条武子の歌碑がある。
 「おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」
 地下鉄の築地駅を出ると目の前に、本願寺築地別院がある。関東大震災で焼失した後、昭和9年に第22代門主であった大谷光瑞により再建された。日本の寺としては極めてユニークな古代インド仏教様式の石造りである。
 大谷光瑞は、シルクロードの敦煌(とんこう)など、インドから仏教の伝播経路を検証し、仏教遺跡の探検家としても偉大な足跡をのこしている。九条武子は光瑞の妹で、『無憂華(アソカ)』などの歌集が出版されている。
 今、お寺はお葬式や法事のときにしか世話にならなくなってしまった。宗教心のない日本人と世界では見られているし、多くの日本人がそう自覚しているようだ。本当は生きている人間に必要なのが宗教であり、寺院でなければならないのに、いつからか日本人には傲慢と怠慢の心が育って、自然の偉大な力を恐れたり、自らが“おぼつかない”命(いのち)の持ち主である心が薄れてしまっている。九条武子は「大きな仏の慈悲の心に救われて、生死の道を迷い歩んでいく私だ」と、歌っている
 室町時代に京都大徳寺の住職になり88歳まで生きた頓知(とんち)話で有名な一休禅師におもしろい話がある。一休禅師は若いころ地位や名誉を望まず、お金めあての法事を嫌って、純粋な禅の道を求めた。
 あるお寺で住職をしていたとき、普段まったく顔を出さない檀家の主人が亡くなったというので読経を頼まれ出かけていった。亡くなったという主人の枕元に案内されると、一休さんは、家の人に言った
 「金づちを持ってきなさい」
 集まっていた人は、皆、どうするのだろう、と思った。一休さんは、金づちを持つと、いきなりその死人の頭をゴツン!とたたいた。もちろん死んでいる人の頭をたたいても「痛い!」とも言わず反応はない。それを見定めると、
 「もう、遅い、手遅れだ!」
 一休さんは立ち上がって帰りかかった。家人が驚いて、
 「お経を・・・・」
 と、一休さんの衣にすがるが、
 「もう手遅れ!死人に用はない!」
 と言って、帰ってしまった。
 一休禅師は、「生きている間に仏教のお経を聞きなさい」と、言っているのだ。日ごろ、生や死のことを考えずにいる、現世利益だけを求めて自己中心的な自分勝手な人へ、仏教の基本を教えている。

 「酔生夢死」という言葉がある。酔いと夢の中にあるように一生を、うかうかと過ごしてしまうことをいう。快楽を求めて、生活の糧だけをかせぐことにあくせくして、物と金の価値だけに自らの欲望を満たしていくような生き方だ。
 科学と技術のめざましい進歩の中で、心の問題が置き忘れられている。医療問題も深刻な医師不足は、医療の高度化と、病人や老人を生活環境の中で看護する共同体が崩れて、医療機関への負担の増加とともに深刻な問題になっている。その上に、病人の世話をする介護や看病が外部化している、すなわち近親者たちが世話することをしない、またできなくなっている。だから病死、老死する人の85%が自宅ではなく病院死だそうだ。東京では98%になっているという数字も新聞で見た。
 家庭での見とり、在宅死が少なくなっている。老人や病人に寄りそっていく、看取(みと)り、病人の世話することの大事さが失われている、いや忘れられているようだ。そして「直葬」が増えているのだそうだ。直葬というのは、病院で病死した人が自宅に帰らずに、葬議場に直接運ばれることである。
 さびしいですね。
 ある親族の集まりのとき、親しくしていた従妹と同居している90歳になる叔母が出席していた。母を早く亡くした私にとって懐かしい叔母だった。
 「90歳になられて、どんなお気持ちですか」
 と、そばによって聞いた。
 「90歳は、私にとって初めての年ですよ」
 と、元気に言われた。90歳も、今年の一年、今月というひと月も、今日という一日を生きる「今」を大切に生きる。過去にとらわれない。現在を他人(ひと)に頼らずに生きる。その気持を持ち続けることが長寿の秘訣なのですね。
 毎日を周りの人たちと、また、一人でもしっかり生きていく、他人に頼らずに生きていく姿勢がすばらしい。心のよりどころを持っている人だろう。住みなれた自宅で、自然な姿で末期を迎えることのできる、元気な強い心を持ち続けている。

 一昨年、築地本願寺で「十年後のお寺をデザインしよう」というシンポジュームが開かれた。仏教の宗派を越えた人たちが集まって意見が交わされた。
 そのときの結論の一つは、「饒舌(じょうぜつ)な難しい説法」はなくてもいい、開かれた、お寺のコミュニティというのを、ぜひ全国のお寺に広めていってほしい、ということだった。
 お寺は観光やお葬式のためにあるだけではない。お寺の活用と活性化をもっと考えよう。かつては老人の憩いの場所、人々の集まる場所、よい縁が結ばれる人の集うところがお寺だった。どこか心が和(なご)む、心が落ち着くようなお寺院が日常生活の中にあっていいと思う。

                   (月刊『ずいひつ』2009年6月号に掲載



 



築地本願寺(本願寺築地別院)
(パンフレットより)





築地本願寺の境内にある
九条武子夫人の歌碑



「助川山」の章のトップに戻る






本『一休とは何か』
今泉淑夫著古川弘文堂発行
の表紙

一休の『自戒集』に、禅から浄土教への帰宗を表明している。一休が浄土教への帰依を明らかにした寛正2年は、親鸞聖人二百回忌法要で、本願寺へ参詣して蓮如上人と語り合った、と伝えられている。一休はその法要の席で、
「襟巻きのあたたかそうな黒坊主
 こいつが法は天下一なり」
と詠んだという記録がある。
『蓮如上人ものがたり』
千葉乗隆著






臨済宗の祖・義玄師のことば
写仏画若松千恵子
いわき中央台教室
小泉倫子さんの書








このページのトップへ戻る

 
「二河白道(にがびゃくどう)」 

 「二河白道」は仏教法話で、生から死に至る人生のたとえ話の代表的なものの一つです。『白道』は、作家瀬戸内寂聴の作品の題名にもあります。中国や日本で古くから言い伝えられている東洋的な仏教の宇宙観や世界観にもとづくものです。西洋にも同じようなたとえ話はあるようです。
 このお話を書かれた中国の善導大師は、唐代七世紀ころの人で、仏教の真髄、お釈迦(しゃか)さまの正しい教えを明らかにされたことで知られています。西洋では、旧約聖書の「エズラ記」の中に、狭い一本の道として、同じように書かれています。
 昭和16年発行の『牛の口籠(くつご)』という、日立製作所の創業時の大先輩馬場粂夫博士の書かれた本に詳しく解説されています。
 まず、馬場博士の「二河白道」の解説を要約して紹介しましょう。
 ・・・・・・
 ここに一人、西の方に向かい旅する人がいる。行く先の南北両側には大きな二つ河の流れが現れる。南は火の河で、もう一つは水の激流が北にある。この二つの河は、それぞれおよそ幅が2キロメートルの大河で、行く先で、水と火の河は接近して、両河を隔てているのは、わずか15センチほどの幅の細い道があるだけである。水の河からは波が打ちかけ、火の河からは炎が燃え上がっている。旅人の前方には、その河を渡る狭い白く見える細い道だけである。
 さてと、後方を振り返ると、娑婆(しゃば)世界の盗賊が手に手に白刃を振りかざして、「返れ、返れ!」と呼びかけている。野獣の群れが襲いかかろうとしているのだ。前方の細い白い道を行けば、落ちて水におぼれるか火に焼かれるか、行くも退くも死ぬしかない。いずれにしても助かることはない。死ぬことが必定となれば、この白い道を行くしかないと覚悟を決めたとき、後方の東の岸(此岸(しがん))から、
 お釈迦如様の、
「おまえは決定(けつじょう)してこの道を行け、必ず死ぬことはない、そこに止まれば命があぶない、足を止めずに進み行け!」
 との声が聞こえる。また、向こうの西の岸(彼岸)からは、
 阿弥陀如来が、
「なんじ、一心にわき目をふらず、まっすぐに来い。水火の河に落ちることなど決してない、疑いなく信じて来い」
 と、呼んで手招きをしておられる。
 後方からの、
「その道は危ない、悪心を持って言うのではない、もどって来い!」
 と、賊どもの言うことには顧みず、旅人は一心に狭い白道を進んだ。しばらくして西の岸に無事にたどり着いた。そして、一切の恐怖を忘れて安堵(あんど)したその所は、生まれ故郷であり、親子兄弟はいうにおよばす知己友人と、旅人は久しぶりの対面をすることができ大慶を楽しんだ。
 ・・・・
 というのがあらすじです。
 人が楽しみを貪(むさぼ)ろうとする欲望の世界が水の河であり、自分の都合のよいようにならないとき腹が立つ怒りや憎しみの世界が火の河となります。このような娑婆世界の此岸から、極楽浄土の彼岸に行く道筋を示しています。人の死に方を示しているといってもいいでしょう。
 宇治の平等院をつくり極楽往生への阿弥陀如来によるお迎え(来迎(らいごう))を信じた極楽浄土の教えもありましたが、現実は、そのように甘くうまくはいかないものでしょう。平安時代の末期、藤原一族が栄華を極めて、死に際には阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩とともに山肌を一気に下ってきて極楽往生へのお迎えがあるという、浄土信仰がありました。しかし浄土往生は極めて難しく、善導大師が、阿弥陀如来が呼んでいると説いたが、親鸞は念仏で行くといわれている。疑いをもたず阿弥陀如来の本願を信ずるという信仰心が、まず一番に大事だと日本で、一般大衆に最初に説いたのが親鸞であったのではないでしょうか。
 人生の縮図として、二河白道は古今東西で共通したものといえるようですが、白道を進むものは、西洋では夢のお告げであり祈りといい、仏教では、善導大師は如来が呼ぶといい、親鸞は信じて疑うことがなく念仏で行くといわれる。
 馬場博士は、「二河白道を知らないで、うろうろしている人も多いが、白道から落ちる人もいる。これを自殺という、気の毒な人だ」
 と、記されています。そして、
「親鸞の教えが一番進んでいるように見える。白道で落ちて死んではならない、また引き返してはならない。大悲を信じて、貪欲(どんよく)、怒りや憎しみを取り除いて、清い祈りを心がけることが望ましい。願わくは積極的に。」と結ばれています。

 二河白道の絵は鎌倉時代から現在でも多く制作されていますが、挿画は、本『牛の口籠』に載っている東海進蔵氏の描かれたものです。

            
雑誌「ぱんぽん」2009(H21)年3月号(288号)に掲載





下の黄文字をクリックするピアノ「白い道」が聞けます
北海道富良野の風景
(星川雄さん撮影)
クリックするとピアノ演奏が聞けます。ピアノによる『白い道』
ヴィヴァルディ「四季」からをお聞きください。










棟方志功の「御二河白道図」
高岡市善興寺 所蔵
日本経済新聞2008.12.23掲載
(東京虎ノ門 光明寺にリトグラフがある)




















「ぱんぽん」2009.3月号掲載
馬場粂夫著「牛の口籠」より
東海進蔵絵


このページのトップへ戻る

トップページに戻る